2021.07.26 04:23「いざ吉原へ」5 構造(1)仲の町②「吉原三景容」 「いざ吉原へ」5 構造(1)仲の町②「吉原三景容」 仲の町を描いた浮世絵には、桜並木が多く登場するが、いつもあったわけではない。桜のシーズンに入る旧暦三月一日に合わせて、植木屋が大量の桜の木をわざわざ運び込み、大門から水道尻までの仲の町に青竹の垣根をめぐらして植えたのである。桜...
2021.07.25 04:25「いざ吉原へ」4 構造(1)仲の町①引手茶屋と花魁道中 大門をくぐると仲の町(なかのちょう)。「水道尻」(すいどじり。廓の下水の集合場所)と呼ばれる突き当り(火防災の神、秋葉権現をまつる常燈明が立っている)まで、吉原を南北に貫く百三十五間(約250メートル)のメインストリート。 「よし原の背骨のよふな仲の町」 享保のころまでは...
2021.07.24 01:29「いざ吉原へ」3 道筋(3)衣紋坂~大門 日本堤の土手上から吉原の正門である大門(おおもん。「だいもん」ではなく、京風に「おおもん」と読むのは、「元吉原」が京の六条新屋敷の郭を模してつくられたせいともいわれる)までは、ゆるやかな坂を下っていく三曲がり(S字形カーブ)の「五十間道」(ごじっけんみち)。距離がおよそ五十間(...
2021.07.23 00:26「いざ吉原へ」2 道筋(2)日本堤~衣紋坂 山谷堀に軒を連ねた船宿は、「中宿」、すなわち吉原との中継地の役割も担っていた。第一の役割は着替えの場。常連の商家の客などが、地味な木綿の着物を、預けておいた派手な絹の着物に着替えることがあった。僧侶の場合は、ここで墨染めの衣から羽織姿に着替えた(変装した)。僧侶が女犯(にょぼん...
2021.07.22 04:35「いざ吉原へ」1 道筋(1)~日本堤 吉原は市中の良風美俗を乱さぬようにと、市街を外れた浅草寺裏手の辺鄙な地域にあったから、遊郭通いにはかなりの時間がかかった。吉原に行くには、どこから出発するにしても最後は日本堤(にほんづつみ)に出なければならない。日本堤に至る道筋は大別して四つ。(1)徒歩または駕籠① 浅草寺...
2021.07.21 03:33「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」16 コジモのパトロネージ④ 15世紀前半のイタリア美術史は、ルネサンスと国際ゴシックという、二つの新潮のせめぎ合いと相互浸透の視点から見なければ理解できない。そして、この二つの潮流はいずれも、それまで芸術にあまり関心のなかったブルジョア市民階級が、美術品を熱心に求めるようになってきたという傾向を背景として...
2021.07.19 23:42「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」15 コジモのパトロネージ③ 建物があれば、当然そこを飾る彫刻や絵画が必要になる。コジモは画家や彫刻家にとっても重要なパトロンだった。 画僧フラ・アンジェリコはサン・マルコ修道院の壁画を制作しただけでなく、付属聖堂の主祭壇のための祭壇画「サン・マルコ祭壇画」も描いている。聖母の前に跪いているのは、メディチ家...
2021.07.18 23:58「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」14 コジモのパトロネージ② サン・ロレンツォ教会の改築工事と前後して、コジモによってサン・マルコ修道院の改修工事が始められている。この修道院はコジモと親しかった教皇エウゲ二ウス4世によってドメニコ修道会に与えられたものでで、修道院長もコジモの友人だった。コジモはこの修道院の建築費用だけでなく、修道会の運営...
2021.07.17 23:28「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」13 コジモのパトロネージ① コジモのパトロン活動はメディチ家の巨大な財力を背景とし、権力の誇示や政治的影響力の拡大という目的を持っていたことはもちろんだが、それを越える広がりと奥行きを持っていた。そこには、人文主義的知識人としてのコジモ自身のユニークな個性が深く関与していた。ダンテやボッカチオ以来の伝統を...
2021.07.17 00:12「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」13 コジモ・ディ・メディチ(6)ローディの和 コジモの初期の外交的成功を象徴するのが、1439年フィレンツェで開催された東方教会とローマ教会の合同会議である。この公会議は、反教皇派のバーゼル公会議(対立教皇フェリクス5世を選出)に対抗して、エウゲ二ウス4世がフェッラーラに東方教会の代表団を招いて開催したものであるが、コジモ...
2021.07.16 00:15「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」12 コジモ・ディ・メディチ(5)全盛 コジモはフィレンツェに帰還した翌年の1435年、メディチ銀行の組織を再編し、子飼いの番頭ジョヴァンニ・ベンチを総支配人に任じ実務の大半を任せたが、ベンチは忠実かつ有能に職務を果たし、コジモの絶大な信頼を得て、メディチ銀行の大躍進に貢献した。1435年以降の経営戦略において最も目...
2021.07.15 01:59「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」11 コジモ・ディ・メディチ(4)「独裁」 9月28日、コジモはヴェネツィアを出発し、10月6日にフィレンツェ郊外のカレッジの別荘に到着。市民は熱烈歓迎の用意をして待ったが、コジモはお祭り騒ぎの主役になることを避け、供を連れずに弟ロレンツォと二人、裏通りを通って市庁舎に入った。ともあれ、この日からフィレンツェの歴史は新し...