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 ローマが七つの丘(カピトリーノの丘、パラティーノの丘など)からなる町だということはよく知られているが、パリも丘の町だ。もっとも高い丘は、標高130メートルのモンマルトルだが、ここがパリ市に編入されたのは、パリ大改造を行ったナポレオン3世の時代の1860年のこと。それまで長らくパリで最も標高の高い丘と言えば「サント・ジュヌヴィエーヴの丘」だった。現在、ここにはパリのあちこちから見える、巨大なドームとコリント式の円柱が特徴的な新古典主義様式の壮麗な建造物が建っている。パリを象徴する建物のひとつ「パンテオン」だ。

 パンテオンの歴史は6世紀初めまでさかのぼる。507年にキリスト教に改宗したフランス国王クロヴィスは自分と妻の墓所として大聖堂を建設。それがサン・ピエール・エ・サンポール教会だった。パリをアッティラの侵入から守った聖ジュヌヴィエーヴは502年に亡くなり、この教会のクリプトに葬られた。教会を造ったクロヴィス王も彼女の墓の隣に埋葬されたと言われている。この教会は12世紀に修道院になり、1744年にはルイ15世によってサント・ジュヌヴィエーヴ教会へと変貌していく。それは聖ジュヌヴィエーヴへの祈願によって重病を克服したルイ15世が、自分を救った聖女にこの大聖堂を捧げたいと希望したためだ。新しい大聖堂の計画は新古典主義建築の代表的な建築家スフロに委ねられた。彼は古代、ゴシック、ルネサンスとさまざまな時代の芸術から着想を得て、ローマのサン・ピエトロ大聖堂や、ロンドンのセント・ポール大聖堂に比肩するような斬新な建物を設計。着工は1764年。

そして迎えたフランス革命。丸屋根の建造は終了していたものの、教会としての聖別を受けていないという状態だった。1791年、憲法制定議会は、教会を国の偉人に捧げる霊廟に変えることを決定。フランス革命の偉人ミラボー(1749-1791)の葬儀は、1791年4月、パンテオンで行われ、啓蒙の世紀を代表する哲学者ヴォルテール(1694-1778)の遺骨も1791年7月に移送された。元々パンテオンの立つ場所に眠っていた聖ジュヌヴィエーヴの石棺は、フランス革命の混乱を乗り切り、パンテオンの向かいにあるサン・テティエンヌ・デュ・モン教会に移された。

その後パンテオンはフランス史の有為転変のままに、数々の変化を遂げる。1805年、ナポレオン1世の治政下では、パンテオンはふたつの役割を与えられました。身廊はカトリック信仰の場に、地下納骨堂は国家功労者の栄誉を讃える場となる。ブルボン王朝(ルイ18世とシャルル10世)の治政下ではカトリックの信仰の場に、ルイ=フィリップの時代には無宗教の霊廟にと19世紀を通じてパンテオンの役割は何度も変更された。1851年、ナポレオン3世は、パンテオンをカトリックの信仰の場にする。そして1885年、熱心な共和主義者だったヴィクトル・ユゴーの国葬以来、パンテオンは再びフランス史を代表する偉人を祀る国家の霊廟となった。

 パリのパンテオン前にある教会が「サン・テティエンヌ・デュ・モン教会」。ここはパスカルやラシーヌの墓でも有名だが、歴史的にはパリの守護聖女(パトロンヌ)ジュヌヴィエーヴの聖櫃が重要。18世紀末まで、パリに大災害が迫るたびに、この聖ジュヌヴィエーヴの櫃は担ぎ出され、丘を下り行列を作ってノートル・ダムまでパリの町を練り歩いた。主なものだけでも、13世紀初めから500年間に70回近くを数える。 もともとこの教会があるこの丘には聖ジュヌヴィエーヴ修道院があり一帯がすべてその領地だった。パンテオンも、もともと聖ジュヌヴィエーヴに献堂するために建てられた。聖ジュヌヴィエーヴ修道院に仕えていた従僕たちは、1220年まで修道院教会の地下聖堂でミサにあずかっていたが、その数が増えたので、あらたに隣接の地に新会堂の建設が必要とされるにいたった。こうして13世紀に聖エティエンヌ(ステファノ)に捧げられた教会が建てられた。

シャルル・フィショ「1870年以前のパリの一般的な眺め」1855年 右上がサント・ジュヌヴィエーヴの丘

パンテオン 2016

パンテオン 内部

シャヴァンヌ「聖ジュヌヴィエーヴの生涯」連作 パンテオン

シャヴァンヌ「聖ジュヌヴィエーヴの生涯」連作 パンテオン

サン・テティエンヌ・デュ・モン教会

18世紀に描かれたサント=ジュヌヴィエーヴ修道院

「聖ジュヌヴィエーヴの墓」サン・テティエンヌ・デュ・モン教会

聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物を運ぶ行列

 5世紀前半に中部ヨーロッパに建国されたフン族の王アッティラは、その容赦のない暴虐ぶりから、ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」「神の鞭」と呼ばれ恐れられた。452年、アッティラは、北イタリアに侵攻して道々で略奪を行う。ヴェネツィアは、人々がこれらの攻撃からラグーナ(潟)の小さな島へ避難したことによってつくられた。

ヴェネツィア文化の発祥地であり7世紀には人口1万人を数えたといわれるトルチェッロ島。5世紀から10世紀までラグーナの最も重要な町として栄えたが、川が運んでくる土砂によって沼地になるに従い、マラリヤがはやり、次第に衰え、住人はムラーノやヴェネツィア本島(中心はリアルト)に移った。しかし、そもそもこのラグーナに人々が住むようになったころ、肥沃なロンバルディアの平原と比較すればこの地はマラリアが蔓延し、取るに足らぬ集落しか営めないような沼沢地だった。そんな場所で人々があえて生活を営もうとしたのは、アッティラの恐怖がいかに大きかったかを示している。トルチェッロ島のサンタ・フォスカ教会の前に「アッティラの玉座」と呼ばれる石でできた椅子がある。これはアッティラがトルチェッロ島に侵入、大勢の住人を殺したとき、アッティラが権力と神への忠誠を誇示するために作らせたものだといわれる。

 アッティラは、トルチェッロ島侵略の前年の451年、ライン川を超えてガリアに侵入している。たちまちトレーヴ、メス、ランスを攻略した。ランスでは、司教ニカシウスが教会の祭壇で虐殺された。アッティラの軍勢がパリに迫ったとの知らせが届くと市民たちは恐怖におののく。パリ市民の主だった連中は、安全な場所へ逃亡するため、家財道具をまとめ始める。それをジュヌヴィエーヴはおしとどめようとする、キリストのお守りがあるなら、パリは必ず救われるのだから、と。人々の反抗の声が大きくなり、彼女をにせ預言者とののしり、石で打とうとする者、井戸の底へ投げ込めと叫ぶ者まで出てきた。この時、知らせを受けてオセールの町から司教代理がかけつける。今は亡き聖なる司教ジェルマン(「オセールの聖ジェルマン」)が、ジュヌヴィエーヴを神に選ばれた女と認めていたことを告げる。興奮していたパリの人々も少しずつ落ち着きを取り戻し、すべてをジュヌヴィエーヴの祈りに託することとなる。アッティラはそのまま西進せず、南に折れて、オルレアンをうかがい、再び北方へ退いて行った。「祈りによって、フン族の軍勢をパリから遠くへと迂回せしめたジュヌヴィエーヴ」とジュヌヴィエーヴ伝の作者は記した。

 パリは、いにしえのバビロンやローマと同じく悪徳と退廃の町という一面も持っていて、神の怒りにさらされながら、それでも今日まで沈まずに、何とか持ちこたえてきた。船のしるしのもとに「たゆたえども沈まず」(Fluctuat nec mergitur)は、パリの紋章に刻まれた句である。信仰の目で見るなら。この町が神の憐れみに支えられてきたのは、辛うじて小さな信実の持続があったからといえるのだろう。それは、聖ジュヌヴィエーヴをはじめ、何人もの献身的な人びとがパリに寄せてきたいとおしみと一途な愛の結果によるものである。

 1914年、マルヌの戦場で壮絶な戦死をとげた愛国者、熱血の詩人シャルル・ペギーはうたっている(「パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴ)」。

「・・・ナンテールで羊を飼いながら       春 初めてのツバメが来るのを待っていた人

 あなただけは ごぞんじだ この町の信実さを  さまようように見えながら ここにしっかと座を

占めたこの町の・・・

 あなたは語る 神様から このつとめを委ねられ 人々を見守り 親身に世話をしてきた者として

 あなただけが言えるのだ この町の信実さを   民主的であるくせに 封建的なところもあるこの町の

 ・・・・」

「パリの守護聖女 ジュヌヴィエーヴ」カルナヴァレ美術館

ピエール・プヴィス・ド・シャヴァンヌ「祈る子供の頃のジュヌヴィエーヴ」パンテオン パリ

「羊飼いの聖ジュヌヴィエーヴ」カルナヴァレ美術館

ピエール・プヴィス・ド・シャヴァンヌ「パリを見おろす聖ジュヌヴィエーヴ」パンテオン パリ

パリ市の紋章

サンタ・フォスカ教会 トルチェッロ島

「アッティラの玉座」 トルチェッロ島

 パリの初代司教・聖ドニの墓の上に、475年頃教会を建てたのがサン・ドニ修道院の始まり(フランス革命後に一般信者向けの教会になり、大聖堂【カテドラル】に格上げされたのはまだ1966年のことにすぎない)。7世紀にはダゴベール1世(639年、フランス歴代国王のうちで初めて サン・ドニ修道院 に埋葬された)が、8世紀にはぺパン(ピピン)短躯王(ローマ教皇にランゴバルド王国を倒して獲得したラヴェンナ地方を寄進【ピピンの寄進】)が、それぞれ建物を新築したものの、時代が経るにつれ、この修道院は徐々にさびれていく。

 そこに登場したのが、ゴシックの端緒を開いたというべき修道院長シュジェール(1081―1151)。彼は修道院を復興しただけでなく、国王の篤い信頼を得て、フランスの摂政さえつとめた大立者だった。極貧の家に生まれたシュジェールは、幼くしてサン・ドニ修道院に入れられた。修道院内の学校では後のルイ6世と机を並べ、生涯の親交が始まる。シュジェールは、サン・ドニ修道院が悲惨な状態にあるのを見て、心を痛めていた。彼自身こう記している。

「この修道院内に育った子として私は、教会の現状が悲痛の種であった。成人した時、是非これを回復したいとの熱い願いが心に起こった」

修道院長となるのは41歳の時で、以後、修道院の大胆な改革に邁進。シュジェールは、ほとんど「無からはじめねばならなかった」。建築家、金銀細工師、ガラス工、彫刻家、石工などを各地から駆り集め、必要な材料を諸方面に調達しなければならなかった。ポントワーズの採石場から石を、イタリアから大理石を、イヴリーヌの森から材木を、その他、金銀、宝石類を運んだ。ともかく、どこにもモデルはなかったのである。かれは、旧約聖書で詠んだソロモンの神殿の神聖な美を心に甦らせ、巡礼者たちから聞くオリエントのビザンティン聖堂のまばゆいばかりの壮麗さを、イメージにうつし上げようとはかる。ひとりの偉大な人物シュジェールの天才と霊感が、ゴシック・フランスの先頭に立つサン・ドニを生んだのである。

まずファサードに、以後のゴシック教会の定番となる「薔薇窓」を切り拓いた。また多くの人々がスムーズに礼拝できるように聖堂の拡張を図り、内陣の周りに二重の周歩廊と放射状祭室を設け、ステンドグラスからの光がふりそそぐようにした。内陣の完成は1144年。盛大な献堂式がとり行われたこの年が、ゴシック建築発祥のひとつの目安とされる。

 ところでゴシックの空間を解く鍵の一つは「光」。聖書によれば、光は神による最初の創造物であると同時に、神自身「近づきがたい光の中に住み」、「光を衣のようにまとう」。そして神の「輝きは光のようで、その光は彼の手からほとばしる」。イエス自身も「光としてこの世にきた」、「すべての人を照らすまことの光」であった。宗教的な世界の中に生きていた中世の人々は、現代に生きる我々に比べてはるかに強い感受性と想像力をもってゴシックの大聖堂における光を、神秘の光、イエスの光として体験した。

 誤解しがちだが、ゴシックの教会堂において、ロマネスクに比べて窓の面積が格段に大きくなっているのは、堂内を明るくするためではない。神秘的な色彩の光で堂内を満たすためであった。ドイツの美術史家ハンス・ヤンツェンは、ゴシックの大聖堂における光の体験を次のように描写する。

「ゴシックの空間は、名状しがたいほどの神秘性を帯びた暗い赤紫色の光に浸されている。光は、一つの光源から来るのではない。その輝きは自然界の天候により変動し、時に強まり、時に弱まる。そして時には、ほの暗い色彩を想像もできないほどの鮮やかさで燃えたたせる」

中世のステンドグラスの大半は、のちに透過率の高い明るいステンドグラスや白色ガラスに取って代わられたので、中世の人々と同じ光を見ることは現在ではなかなか困難になってしまったが、シャルトル大聖堂やブールジュ大聖堂など少数の教会堂においては、まだ中世の光を体験することができる。この高貴なる光の膜に包まれて、中世の人々は、自らが光なる神の御手のうちにあると感じたことであろう。

シャルトル大聖堂

シャルトル大聖堂 西ファサード

シャルトル大聖堂 内部

シャルトル大聖堂 北バラ窓

シャルトル大聖堂 南バラ窓

「シュジェールの鷲」ルーヴル美術館 

 サン・ドニ修道院の宝物館で古代の斑岩の壺が見つかり、修道院長シュジェールがそれを典礼用の容器に作り変えることを思いついた(鳥の首の中に管がつけられ、水差しとして使えるようにした)

 歴代のフランス国王の戴冠式が行われる定めになっていたのはランス大聖堂だが、彼らが葬られた墓所はサン・ドニ大聖堂。フランソワ1世も、カトリーヌ・ド・メディシスもマリー・アントワネットもここに眠っている。その数は王が42人、王妃が32人。63人の王太子および王女もこの地に眠っている。

なぜ国王たちは、この地に眠ることを望んだのか?それは、聖ドニの墓の傍らで眠ることで永遠の安心を得ようとしたからだろう。では聖ドニとはどんな人物か?3世紀、イタリアからやってきた7人の宣教師団が、ガリアにキリスト教の教えを広めるためパリ(ルテティア)へ辿りつく。この宣教師団の中にパリの初代司教となるドニがいた。彼は司祭リュスティック、助祭エルテールと共にシテ島(パリ)に暮らす。250年頃、ドニは多くの人々を改宗させたためにドルイド(ケルト人社会における祭司)の怒りを買い、彼らの聖地であったと思われるパリ近郊の最も高い丘(モンマルトル)で斬首刑に処せられる。伝説によるとドニは斬首された後も切られた自らの頭部を腕に抱えたまま、北に数キロメートル歩き続けカトラクスの村(現サン・ドニ)に着いたところで倒れ絶命。信仰あついひとりの女性カトゥラが3人の殉教者(ドニ、リュスティック、エルテール)を埋葬し、そこに簡素なモニュメント(小礼拝堂)を建てる。これがサン・ドニ大聖堂の起こりである。

このサン・ドニ聖堂をフランス王家の一大廟堂とすることを決定し、自分に先立ち、7世紀以後の全ての王の肖像を作らせてここにおさめるようにと配慮したのは聖ルイ(ルイ9世)。しかし現在、ここにならぶ石棺の大部分は空っぽで、遺体や遺骨は入っていない。それは、あのフランス大革命の時代、この聖堂もまた、凌辱の対象とされたからである。1793年7月31日、「かつての王どものいまわしい思い出」をそそる一部の建物を破壊する命令が下され、3日間で51の国王の墓所が破壊され、47の寝像が砕かれた。その2カ月後、猛り狂った暴徒の群れは地下聖堂にも押し入り、2週間にわたって敷石をはがし、棺をくつがえし、死体を粉砕し、遺骨を散乱させた。フランス革命の負の側面を象徴する出来事である。

 ところで聖ドニ(サン・ドニ)像、彫刻でも絵画でも一度見たら忘れられない姿だ。はねられた自分の頭を自分で両手に抱えている。「シュザンヌ・ ビュイッソン小公園 Square Suzanne Buisson」は、モンマルトルの丘の北西エリアにある小公園だが、 サン・ドニが切り落とされた自分の首を洗ったという井戸があった場所にサン・ドニ像が立っている。ノートル・ダム大聖堂の西側のファサードの南入口には、天使に挟まれたサン・ドニ像がいる。パンテオンではレオン・ボナの「サン・ドニの殉教」、ルーヴル美術館ではアンリ・ベルショーズの「サン・ドニの殉教」の絵を見ることができる。なんとも奇妙なフランスの守護聖人サン・ドニ。

レオン・ボナ「サン・ドニの殉教」パリ パンテオン  部分

レオン・ボナ「サン・ドニの殉教」パリ パンテオン

アンリ・ベルショーズ「サン・ドニの殉教」ルーヴル美術館

「サン・ドニ像」ノートル・ダム大聖堂(パリ)西ファサード

「サン・ドニ像」モンマルトル シュザンヌ・ ビュイッソン小公園

サン・ドニ大聖堂 2020年

サン・ドニ大聖堂 1780年

フランソワ1世とクロード・ド・フランスの墓

アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの墓

ルイ16世とマリー・アントワネットの墓

サン・ドニ大聖堂内のフランス王家の石棺配置図

 ウィーンのホーフブルク宮殿・王宮宝物館にあるキリストにまつわる聖遺物は、「聖釘」だけではない。受難関係だけでも「聖十字架の破片」「キリストの血」「聖顔布(ヴェロニカのハンカチ)」。さらには「最後の晩餐のテーブルクロス切れ端とキリストのエプロン切れ端」も。「キリスト生誕時のまぐさ桶の木片」まである。しかし、何より重要視されてきたのは「聖槍」。13世紀以降、ゴルゴダの丘で磔にされたイエス・キリストの死を確認するために、ローマ兵が脇腹を刺したとされる槍(「ロンギヌスの槍」)だ。王者の統治と力を示すシンボルとなり、奇蹟による無敵の力が備わっているといわれた。皇帝の表章のうちでも最重要とされ、その豪華さで有名な「帝冠」より高く位置付けられた。955年の「レヒフェルトの戦い」(勝利したオットー1世は、キリスト教世界を守ったことになり、962年のローマ皇帝への戴冠【オットーの戴冠】の理由となった。)でオットー1世がハンガリー軍を打ち破り、その後スラヴ人を打ち破ったのも、この「聖槍」の力によるものとされた。この「聖槍」、やはり重要な聖遺物である「皇帝の十字架」の水兵の腕部分に保管されていた。そしてこの「皇帝の十字架」の側面には「この主の十字架の前では邪悪な敵に従う者どもが逃げ、わが君コンラートの前からもすべての敵が退却しますように」という記念的な銘がある(コンラートはコンラート1世【1024―1039】のこと)。

 ところでこの「聖槍」がローマ兵の名前を冠して「ロンギヌスの槍」と言われるが、『新約聖書』に「ロンギヌス」の名は登場しない。「マタイ福音書」、「マルコ福音書」、「ルカ福音書」にはイエスの死を確認する場面で百人隊長が登場するが、槍でイエスの脇腹をつく記述はない。例えば「マルコ福音書」15章37節―39節。

「・・・イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。」

 これが「ヨハネ福音書(19章31節―34節)」ではこうなる。ここでは槍を刺した人物は単に「兵士」と書かれ、イエスが十字架にかけられた翌日のできごとになっている。

「・・・翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。

 ここには槍を刺した兵士の身分も名前も書かれていない。しかし、カトリック教会によって正典から外された文書、いわゆる外典に含まれる「ニコデモによる福音書」は、この兵士がロンギヌスという名であるとしている。そこで「聖槍」は、「ロンギヌスの槍」と呼ばれるようになったのだ。

13世紀になると、ロンギヌスについてはさまざまな伝説が生まれる。そのころ編纂された聖人列伝『黄金伝説』によれば、ロンギヌスは目が悪かったが、イエスの脇腹を槍で刺したところ、その血が目に入り、視力を回復した。また、彼がイエスの脇腹を刺したとき、太陽は輝きを失い、大地は震えた。こうした奇跡を目の当たりにして、彼はイエスが神の子だと確信し、キリスト教に改宗した。その後、ロンギヌスはカッパドキアのカイサリアで28年間修道士のような生活を送り、そこで多くの人々を改宗させたが、最後には首をはねられて殉教したことになっている。

この「ロンギヌスの槍」には、「所有する者に世界を制する力が与えられ」また、逆に「失うと所有者は滅びる」という伝説があり、アドルフ・ヒトラーも探し求めていた。彼がこの槍の神秘的な力に魅せられた のはウィーンで画家を目指していた1909年ごろのこと。1938年、オーストリアがドイツに併合されると、ヒトラーはすぐにロンギヌスの槍をニュルンベルクに移し、そこで開かれたナチス党大会で展示する。しかし、1945年4月30日、連合軍がニュルンベルグにあったロンギヌスの槍を手に入れた直後、ヒトラーは自殺。もちろん、その関連性は知る由もないが。

ベルニーニ「聖ロンギヌス」サン・ピエトロ大聖堂

ルーベンス「キリストの磔刑」アントワープ王立美術館

マールテン・ファン・ヘームスケルク「キリストの磔刑」エルミタージュ美術館

カラヴァッジョ「聖トマスの不信」サンスーシ 絵画館

 イエスの復活をたしかめるために、イエスの槍で刺された傷口に指を入れるトマス

「皇帝の十字架」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン 

 もと皇室の遺物を収めるための聖遺物容器で、水兵の腕部分に「聖槍、支柱に「聖十字架の破片が入っていた。

「帝冠」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン

「聖十字架の破片」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン

「キリストの茨の冠の棘」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン

「キリストの血」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン

「聖顔布(ヴェロニカのハンカチ)」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン

「最後の晩餐のテーブルクロス切れ端とキリストのエプロン切れ端」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン

「キリスト生誕時のまぐさ桶の木片」ホーフブルク宮殿王宮宝物館 ウィーン

 イエスの磔刑に使われた「聖なる釘」の1本は、フランス王を兼ねた神聖ローマ皇帝シャルル2世(禿頭王)が、9世紀にサン・ドニ修道院に寄進して以来、そこに納められていた。ところが聖王ルイの治世の1232年、この「聖釘」が、巡礼者たちの口づけに供せられていた間の2月28日に、忽然と消え失せてしまったのだ。かくも尊き宝物の紛失を知った聖王ルイは、その残酷な知らせに「王国で最もよき司教座都市が壊され、煉瓦に化するほうがましである」と大声で叫んだと伝えられる。パリでは、この王の叫びと「聖釘」の紛失の知らせが伝わると、多くの男、女、子ども、聖職者、学徒が涙を流し、心の奥底からわめき、叫んだ。パリだけでなく、フランス中で「聖釘」の紛失を知った者たちが涙に暮れた。聖王ルイの治世のはじめに起こったこの事件に人々は、これがフランス王国の崩壊の予兆ではないかとまで心配した。

 しかし、この1か月後、無事「聖釘」は発見される。聖王ルイや人々の喚起がどれほど大きかったことか。4月1日、大いなる歓喜、祝祭騒ぎの中「聖釘」は再びサン・ドニ修道院に納められた。現在はノートル・ダム大聖堂(パリ)に移されているが、一昨年の火災時、「茨の冠」とともに搬出されて無事だったようだ。

 以前、ウィーンのホーフブルク宮殿・王宮宝物館で見事な聖遺物容器に入った「聖釘」を見た。ローマのサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会(325年に聖ヘレナ【コンスタンティヌス大帝の母】が聖地よりもたらした聖遺物を祀るために造られた教会だとされる)にも納められている。ドイツ最古の町トリーアの大聖堂にもある。なぜ、トリーアか?そもそも聖釘は、328年ごろ、コンスタンティヌス大帝の母ヘレナ(聖ヘレナ=セント・ヘレナ)がゴルゴタの丘の跡地、現在の「聖墳墓教会」付近で「聖十字架」とともに発見したとされ、4世紀初頭にトリーア(もともとローマの植民都市として建設され、現在もローマ時代の遺跡が点在する世界遺産の街)に住んでいたヘレナは、教会に最も貴重な遺物のいくつかを与えたのだ。シエナの「サンタ・マリア・デッラ・スカラ救済院」にもある。それにしても、一体世界中に「聖釘」は何本存在するのか?イエスを十字架につけた釘は、議論はあるが3本か4本。しかし「カトリック百科事典」によれば、世界中で祭られている聖釘は30本を下らないだろうと言われる(50本以上とする記述も目にした)。

ヘラルト・ダヴィト「十字架への釘打ち」ロンドン・ナショナル・ギャラリー

マンテーニャ「キリストノ磔刑」ルーヴル美術館  三本釘の磔刑象

ベラスケス「キリストの磔刑」プラド美術館  四本釘の磔刑象

ルーベンス「イエスの復活と聖トーマス」アントワープ王立美術館

「聖釘」ノートル・ダム大聖堂(パリ)

「聖釘」ホーフブルク宮殿王室宝物館

 キリストの右手を十字架に留めたという釘が、アーモンド型の顕示容器に入っている。コンスタンティヌス大帝は、この釘を時分の冑に込めさせたと教皇インノケンティウス2世の記録にある。この釘はその癒しの力で非常に有名だったので、訪れる者たちはその力が移ることを願ってロザリオを容器に擦り付けたという。

サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会 聖遺物

 「聖釘」は右から2番目の容器に入っている

「聖釘と容器」トリーア大聖堂

「聖釘」トリーア大聖堂 この中に「聖釘」が入っている

「聖釘」サンタ・マリア・スカラ救済院 シエナ


 聖遺物を求める当時の人びとの熱情は、現代人からは信じがたいほどだ。ホイジンガ『中世の秋』にこんな一節がある。

「紀元約1000年頃ウンブリア山村の民衆は、隠者ロムアルドゥスを危うく撲殺しかけた。これは彼の骨を失いたくなかったためだった。」

 聖ロムアルドゥス(イタリア語:ロムアルド 952年-1027年)はカルマドリ派修道会の創設者。イタリアのラヴェンナの貴族の家庭に生まれ、何不自由なく暮らしていたが、20歳のころ、父親が反対派の市民と争い、相手を殺した事件によって状況が一変。ロムアルドは、市外のベネディクト会の修道院へ逃げ、今までの自分の価値観が誤っていたことに気付き、心を改めて修道士となる。3年後、彼は、厳しい修行をしているマリヌスという隠修士の弟子となり、祈りと修行に励む。彼の徳の高さは人々の知るところとなり、時の皇帝を始め、各界の名士たちまでが教えを受けに行った。ロムアルドが撲殺されそうになったのは、修業していた修道院から故郷へ戻ろうとした折の出来事。彼をすでに聖人視していた近隣の民衆は、かくも功徳のある人物がこの地を去ってしまってはいかなる災禍がふりかかるかもしれないと恐慌をきたし、必死に引き留めにかかった。しかしロムアルドの意思を覆せないと悟ると、せめて聖遺物として留まってもらおうと彼の殺害を計画したのだ。幸いロムアルドは事前にこの計画を察知し、剃髪した上に暴食をしてみせることによって狂人を装い、どうにか難を逃れて帰郷を果たしたという。聖人や聖遺物の持つパワー、エネルギー(ウィルトゥス virtus【ラテン語】)への希求、依存がいかに強かったかを示すエピソードだ。日本人になじみの薄い聖ロムアルドの場合ですらこれだから、ルイ9世が国家予算の半分以上の大金を払ってまで「茨の冠」を手に入れようとしたのか不思議ではない。

 そもそも聖遺物とは、「聖人の遺体、遺骨、遺灰」や「聖人が生前に身にまとったものや触れたもの」を言うが、キリスト教中世においては「黄金や宝石よりも価値がある」と形容された。それは、聖人の身体に生前から宿り、死後もその遺体に残存し続ける特別な力(ウィルトゥス)を持つとされ、そのため人々は聖遺物に何より奇跡、なかでも病気の治癒を願った。

 では、聖遺物の中で高い価値を与えられたものは何か?一般的には、「聖人の遺体、遺骨、遺灰」が第一級の聖遺物とされ、「聖人が生前に身にまとったものや触れたもの」は副次的聖遺物とされるが、例外があった。それはキリストと聖母マリア関連の聖遺物である。キリストは、磔刑後、復活、昇天したとされるし、聖母マリアは死後被昇天したとされ、いずれも地上に遺体が残されていないからだ。そして、中でも重要視されたのが、キリストの受難に関わる事物だった。キリストが架けられた十字架(「聖十字架」)、キリストのわき腹を刺した槍(「聖槍」=「ロンギヌスの槍」)、頭に被せられた茨の冠(「荊冠」)、四肢を十字架に打ち付けた釘(「聖釘」)などだ。ベルニーニはローマの巡礼路を整備するにあたって、サンタンジェロ橋をこれらの受難具を手にした天使像で装飾した。

 このような聖遺物を収めた教会は、多くの巡礼者を呼びキリスト教の布教、堅信につなげることができた。その街は潤ったし、また聖遺物をもたらしそれを収める教会を造った支配者の権威を高め、統治に大いに貢献した。ルイ9世が、聖遺物中の聖遺物である荊冠(茨の冠)を莫大な金を払ってまで購入したのにはこのような背景があったのだ。

サクレ・クール寺院ファサード 左が聖王ルイ騎馬像、右がジャンヌ・ダルク騎馬像

「ルイ9世騎馬像」サクレ・クール寺院ファサード 左手に茨の冠を手にしている

「サント・シャペル」

エル・グレコ「聖王ルイ」ルーヴル美術館

ヴァン・ダイク」茨の冠のキリスト」プラド美術館

グエルチーノ「聖ロムアルド」ラベンナ市立絵画館

 講演会の準備をしながら、いつも考える。「この講演をすることに何の意味があるのか?」「今を生きる人がこの講演を聞く意味はどこにあるのか?」。今月実施予定の「中世パリの魅力」。これまで二度実施しているテーマ。中世を暗黒の時代ととらえる歴史観からすれば、そんな時代よりも近代、現代の歴史・文化を扱う方が意味があることになろう。しかし、中世を生きた人々の中に現代人が失ってしまった大切な心性があったとすればどうだろう。たしかに時代とともにそれまで不明だったことが明らかになってきた。不可能だったことが可能になってきた。わずか150年ほど前の渋沢栄一でさえ横浜港を出港してパリに到着するのに2カ月かかったが、今は12時間、100分の1以下の時間で到着できる。しかし、その中で失われたものはないのか?また、時代は進んでも人間が万能になったわけではない。寿命が延びたとはいえ、死の問題は誰もが無縁ではない。こんなことを考えながら、中世フランスを理解するキーワードが浮かんできた。「聖遺物」、「守護聖人」、「ジャンヌ・ダルク」。順番に見ていこう。

 2年前の4月15日(~16日)、ショッキングな映像がニュースで流れた。炎上するパリ・ノートル・ダム大聖堂。建物の損壊ももちろんだが、聖遺物「茨の冠」は無事か、と不安になった。この「茨の冠」、イエスが十字架につける前に被らされたもの。

(『新約聖書』「マルコによる福音書」15章15節―20節)

「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは邸宅、すなわち総督官邸の中にイエスを連れて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と挨拶し始めた。また、葦の棒で頭を叩き、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の衣を脱がせて元の上着を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。」

 もともとこの「茨の冠」は、ステンドグラスで有名な「サント・シャペル」(「聖なる礼拝堂」)に保管されていた。これを入手したのは「聖王ルイ」(「サン・ルイ」ルイ9世)。彼は、1239年にコンスタンティノープルのラテン帝国皇帝ボルドワン2世から13万5000リーヴルで購入した(別の説もある)。当時のフランスの国家予算25万リーヴルの半額以上!そしてこの「茨の冠」を十字架の断片などの他の聖遺物とともに収容する礼拝堂として建設されたのが「サント・シャペル」だったのだ。その建設費用は4万リーヴル。いかに「茨の冠」の価値が高かったかがわかる。

 ところで、ルイはこの「茨の冠」を金銭で購入したのだが、このような聖遺物の入手方法は当時にあっては極めてまれだったとされる。どういうことか?それは、金銭によって売買される聖遺物には、真正性への疑念が付きまとったからだ。身元のしれない骨が、由緒ある聖人の遺骨との触れ込みで持ち込まれることもしばしばあった。そもそも聖遺物は、もっぱら外見上は何の変哲もない人骨等であり、それ自体では真贋も判然としない。だから、本物であることが確実な聖遺物を略奪・盗掘することが頻繁に行われた。そしてそれを正当化する論理はこうだった。その略奪行為が本当に許されざる行為であるなら、聖遺物が、つまり聖人自身が抵抗し、略奪は成功しなかったはず。成功したのは、聖人が略奪による移葬を望んだからだ、と。

 サン・マルコ寺院、サン・マルコ広場で有名なヴェネツィアの守護聖人はもちろん聖マルコ(サン・マルコ)。しかし、かつては聖人としての各はそれほど高くない聖テオドロが守護聖人だった。力をつけつつあったヴェネツィアは、さらなる繁栄、発展のために、キリストや聖母マリアに次ぐ聖人の聖遺物を求めた。そして、福音書記者の一人聖マルコの遺体をエジプトのアレキサンドリアから盗み出してきたのだ、イスラム教徒が嫌う豚肉で隠して。それははかりしれない影響をヴェネツィアにもたらした。

「823年、エジプトのアレクサンドリアから、福音書作者聖マルコの貴重な遺骸がヴェネツィアにもたらされ、彼とその象徴としての獅子が、この町の守護聖人となった。神とその子たる救世主に感謝が捧げられた。その時いらいヴェネツィアは、ほどなく着工されたバジリカ会堂とともに、確固たる心=確信をもつことになる。言い換えれば、力と情熱をもって、誇りと自信をもって自分自身であり続けるよりどころをひとつふやしたのである。」(フェルナン・ブローデルは『都市ヴェネツィア 歴史紀行』)

2019年4月15日 炎上するノートル・ダム大聖堂

「茨の冠」ノートル・ダム大聖堂 パリ

ミハリ・ムンカシー「エッケ・ホモ」デリ美術館 デブレツェン ハンガリー

カラヴァッジョ「エッケ・ホモ(この人を見よ」ストラーダ・ヌォヴァ美術館 ジェノヴァ

ジョット「愚弄されるキリスト」スクロヴェーニ礼拝堂

グリューネヴァルト「十字架を背負うキリスト」

ベラスケス「キリストの磔刑」

 何しろ今年の京都の桜の開花の早さは観測史上1位。見頃の桜を求めて久ぶりに大原まで足をのばした。訪れたのは三千院、宝泉院、実光院とバス停をはさんで反対側にある寂光院。宝泉院、実光院の庭園は見事だったが、好みは三千院の「聚碧園」(しゅうへきえん)。江戸時代の茶人・金森宗和による修築と伝えられる池泉鑑賞式庭園。隅にある老木「涙の桜」は室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ一首に由来。

「見るたびに 袖こそ濡るれ 桜花 涙の種を 植えや置きけん」

その桜は西行法師のお手植えとも、頓阿上人の友、陵阿(りょうあ)上人のお手植えとも伝わり、近年は5月に白い花を咲かせるという。

 ところで、「三千院」の「三千」とは仏教の世界観で、想像上の宇宙全体のこと。「三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)」の略で、「三界(さんがい)」ともいう。世界の中央にそびえるという須弥山(しゅみせん)を中央に、四大洲、七山八海(ななせんはちかい)があるのを我々の住む小世界とし、小世界一千で「小千世界」、小千世界一千で「中千世界」、中千世界一千で、「大千世界」となる。千が三つ重なるので、これを「三千大千世界」、略して「三千世界」という。これが、ひとりの仏が教化する世界とされた。

 「三千世界」と聞いて浮かぶのは高杉晋作の有名な都々逸。

「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」

 これは、客ではなく遊女の思いを詠んだ歌。遊女は、お客を繋ぎとめるために「貴男だけが本命だから、他の客に体を許しても心は許さないことをことを誓う」という旨を書いた起請文(誓約書)を客に渡すが、もちろん金づるになりそうな客にはむやみにばら撒く。この起請文は、熊野神社の護符の裏に書くのが決まり。書かれた誓いを破れば熊野の神の使姫たる烏が三羽死ぬということになっている。だから、歌の文句は「今まで数限りない男と起請文を書いてきたあたし(遊女)が貴方(=主【ぬし】)と寝ることで、世界中の鴉が死んでしまうことになってしまおうとも、それでも今だけは本当に愛している貴方と一緒に朝まで寝ていたい」という意味(ほかにも解釈はあるが)。

 「寂光院」は、建物も庭も三千院とは比べようもないが、建礼門院徳子の人生に思いをはせながらめぐる楽しみがある。建礼門院徳子は平清盛と時子の次女で、16歳の時に、第80代高倉天皇に嫁ぎのちの安徳天皇をもうける。しかし、病弱であった夫の高倉天皇はわずか20歳にして崩御し、世は源平争乱の時代へと進んでいく。そして、1185(文治元)年3月、平家一門は壇ノ浦の戦いに敗れ、建礼門院は母の時子と、まだ8歳だった安徳天皇を抱きかかえて入水。母の時子と安徳天皇は亡くなるが、十二単を着ていた建礼門院は沈まず、海に浮いていたところを源氏方に助けられてしまう。その後、京に戻され、東山の長楽寺に入り、出家。そして、1185(文治元)年9月に我が子、安徳天皇と平家一門の菩提を弔うために、隠棲の場所となる寂光院に入る。その翌年の初夏、義理の父親である後白河法皇が訪れる。法皇はその侘び住まいに暮らす建礼門院の姿を見て、涙を流し、再会を果たしたふたりは、いつまでも懐かしく語り合ったと言われる。これが『平家物語』に出てくる有名な「大原御幸(おおはらごこう)」のくだり(御幸の真偽については不明)。『平家物語』は最後に、生き残った建礼門院を通して、平家の栄枯盛衰を見つめていく。その後も、建礼門院は平家一門と安徳天皇の冥福を祈り続け、再び、歴史の表舞台に登場することなく、1213(健保1)年にその波乱の生涯を閉じた。

 こんな物語を思い浮かべながら名所旧跡を訪れるのが自分好みの旅のスタイルだと改めて感じた。翌日、原谷苑を訪れ、満開の桜の中を散策できたが、確かにその時は感激したがその思いは持続しない。寂光院の帰り道、一台のクラウンが止まりいかにも裕福そうな男性から「寂光院の桜はどうですか?」と聞かれた。見頃の桜を求めて点から点へ移動するのも一つの楽しみ方なんだろうが、自分のスタイルではない。

北斎「小原女図」


広重「京都名所之内 八瀬之里」

2021年4月7日 大原

2021年4月7日 三千院「聚碧園」

水野年方「平徳子」

月岡耕漁「能楽図絵」 「大原御幸」

下村観山「大原御幸」

2021年4月8日 原谷苑

2021年4月8日 原谷苑

2021年4月8日 原谷苑

 桜が目的ではなかったが、4月6日初めて桂離宮を訪れた。これまで何度か予約を試みるも実現できずにいたが、コロナ禍で容易に予約できた。日本建築の最高峰と言われる桂離宮。広さ2万坪の敷地に広大な庭園が広がる。江戸時代の初め、宮家(皇族の八条宮)の別荘として建てられた。日本文化の本質を、「“簡潔”、“明確”、“清純”」にあるとしたドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880~1938)は、「桂離宮は、伊勢の外宮と共に、日本建築が生んだ世界標準の作品と称してさしつかえない」と述べているが、愛知県の尾張地方のその最西の町(津島市)で育ち、幼い頃より伊勢神宮(「お伊勢さん」)へは何度も足を運んでいたが、桂離宮は映像の世界でしか知らなかった。

 桂離宮の魅力を語った外国人と言えばブルーノ・タウト。ジャポニズム全盛時代のなかで育ち、若い時から日本の美術に興味をもち日本へ憧れをもっていたが、1933年5月4日、念願の来日を果たす。そして翌日、桂離宮と出会い、日記にこう記した。

「泣きたくなるほど美しい」

タウトは翌年の5月にも桂離宮を訪れ、この二回目の桂離宮体験は、エッセイ『永遠なるもの』(Das Bleibende)に結晶する。

「私たちは今こそ真の日本を知り得たと思った。しかしここに繰り広げられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる。私たちはこの神秘にもたぐう謎のなかに、芸術の美は単なる形の美ではなくて、その背後に無限の思想と精神的連関との存することを看取せねばならない。(中略)私たちは暫くここに立ち尽くして、互いに話すべき言葉を知らなかった。」

今回の訪問で感じたのは、その簡潔さ、清純さはもちろんだが、もうひとつある。「バロック的」ということ。バロックというと、過剰な装飾のイメージが付きまとうが、それはあくまでバロックの一要素。本来バロックは、宗教改革に対する対抗宗教改革、カトリック宗教改革の中で生み出された芸術潮流。いかにして人々の信仰心を喚起するかを目的として生み出された様々な手法。だから、アンドレア・ポッツォが描いたサンティニャーツィオ教会の天井画もバロックなら、「静謐」という言葉がぴったりなカラヴァッジョの「聖パウロの回心」(ローマ サンタ・マリア・デル・ポポロ教会)も代表的なバロック絵画なのだ。

では、なぜおよそキリスト教と無関係な桂離宮が「バロック的」だと感じたのか。目的は異なるが、来客を驚かせ、楽しませるための様々な工夫が施されているからだ。例えば、いきなり眼の前に池の姿が展開するように、それまでは池をあえて隠す(樹木を植えて)とか、最初の休憩所の前にソテツという異国風の植物を植えて、珍しいものを好んだ当時の貴族を楽しませたり。「信仰心の喚起」と「もてなし」と目的は異なるが、その目的の効果を高めるために様々な工夫がなされているのは共通している。バロック建築の巨匠ベルニーニも、ローマへの巡礼者たちが、春麗の旅の最後の最後に、突然サン・ピエトロ大聖堂の偉容が眼前に現出する工夫を施した。



桂離宮 2021年4月6日

桂離宮 2021年4月6日

桂離宮 2021年4月6日

桂離宮 池が見えないように目隠し

ブルーノ・タウト

アンドレア・ポッツォ「天井画」サンティニャーツィオ教会 ローマ

カラヴァッジョ「聖パウロの回心」サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂

 都が平城京から山城の地(784年~長岡京、794年~平安京)に移ってからも、万葉のころからの憧れは廃れることがなく、平安の宮廷歌人たちも吉野を盛んに歌に詠んだ。

「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」 坂上是則 「古今和歌集」

(明け方、空がほのかに明るくなってきた頃、有明の月かと思うほど明るく、吉野の里に白々と雪が降っていることだよ。)

 平安の前期においては吉野といえば「桜」ではなく「雪」のイメージだった。それが平安中期ごろから「桜」が詠まれるようになり、平安も末期になると、吉野といえば「桜」という連想の歌が圧倒的になる。

「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬかたの花を訪ねむ」 西行 「新古今集」

(吉野山よ。去年枝折りして入った道を変えて、今年はまだ見たことのない方面の花を尋ねよう。)

  *「こぞ」=「去年」  「枝折(しをり)」=山路で帰りの目印に枝を折りかけておくこと

「み吉野の高嶺の桜散りにけりあらしも白き春の曙」 後鳥羽院 「新古今集」

(吉野山の峰のあたりの桜はもう散ったのか。吹きおろす山風までも、流れる桜の花びらで、白々と吹きすさぶ春の曙であることだ。)

  *『枕草紙』の「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際・・・」をふまえた歌

 吉野が歴史という表舞台でクライマックスを迎えるのは、後醍醐天皇によって朝廷(南朝)が建てられた南北朝時代。建武の新政に失敗した後醍醐天皇は吉野に移り、京(北朝)と別に吉野山に朝廷を起こした。その後醍醐天皇が詠んだとされる歌。

「ここにても雲井の桜咲きにけりただ仮そめの宿と思ふに」 後醍醐天皇 「新葉和歌集」

(吉野は、ただ仮そめの住まいと思っていたのに、ここにも「雲井の桜」が咲いたのだった。)

 *「雲井の桜」=宮中の桜。特に南殿(紫宸殿)の桜をいうことが多い。

 吉野の桜といえば、秀吉が行った花見もはずせない。秀吉絶頂期の文禄3(1594 )年(朝鮮出兵の文禄の役の真っ最中)、徳川家康、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れ た。しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3 日間雨が降り続く。苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じた。その甲斐あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華絢爛な花見が催され、さすがの秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられている。

「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」本居宣長

(日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。)

桜を詠んだ数多の歌の中でもとくに有名なこの歌を詠んだのは本居宣長。彼は、亡き父母がなかなか子宝に恵まれず、吉野の子守の神(吉野水分神社)に 熱心にお参りをしたご加護で自分が生まれたと信じており、そのお礼参りのため、世に聞く吉野の桜見物をかねて春の吉野に訪れた(『菅笠日記』)。一般庶民の吉野への旅が盛んになり、春の吉野山は今と変わりない賑わいを呈するようになったのはこの頃からのようだ。

吉野水分神社  2021年4月5日

一光斎芳盛「東山義政公吉野遊覧之図」 

 東山義政は室町幕府8代将軍足利義政。将軍職を子義尚に譲って東山に隠居したところから「東山殿」と呼ばれた。

奥村土牛「吉野」

後醍醐天皇


「吉水神社」 源義経が弁慶らと身を隠したこと、後醍醐天皇の行宮(「あんぐう」天皇が行幸のとき、その地に設ける仮の御殿)であったこと、豊臣秀吉が花見の本陣とした等の歴史的逸話で知られている

 吉野は古代から今に至るまで、山岳信仰の地として尊ばれてきたが、その点だけでは高野山、熊野三山に劣る。吉野の存在を圧倒的なものにしてきたのは、数えきれないほどの和歌に詠まれてきた歌枕としての知名度だろう。まず日本最古の歌集、万葉集から。

「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む」 柿本人麻呂

(見あきることとてない吉野、その川の滑らかさが永遠であるように、いつまでも絶えることなく、くり返し見よう。)

 現在、吉野を有名にしているのは桜の名所としてだが、奈良時代は違っていた。『万葉集』には吉野を詠んだ歌が百首近くあるが、天皇が築いた吉野宮という離宮があった場所としてその山や川の美しさを詠んだものばかりなのだ。吉野宮へは、歴代の天皇がたびたび行幸したが、なかでも最も多く吉野へ行幸したのが持統天皇。在位中に31回、退位後も2回、吉野を訪れている。この柿本人麻呂の歌は、彼がそんな持統天皇の行幸に従って行った際、吉野宮を褒め称えて詠んだ歌だ。

「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」 天武天皇

(昔のりっぱな人が、よき所としてよく見て「よし(の)」と名付けたこの吉野。りっぱな人である君たちもこの吉野をよく見るがいい。昔のりっぱな人もよく見たことだよ。)

 言葉遊びのような歌だが、天武天皇が「よし」を強調(元々は「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三」と外来文字の漢字で書かれ、六種類の「よし」【淑、吉、良、好、芳、四来】が記されている。)したのには深いわけがあった。天武天皇といえば、大海人皇子として兄である天智天皇の実子大友皇子と後継者争いの内乱(壬申の乱)を戦い、王座を勝ち取った人物。そして、その乱を決起したのがこの吉野の地。この歌は詞書に「八年己卯五月(六七九年五月五日)吉野宮ニ幸」とあり、この時天武天皇は後継となる草壁皇子ら六皇子を伴って吉野に行幸し、草壁を次期天皇として異母兄弟同士で協力し合うことを約束させた(吉野の盟約)。当時の吉野は霊力の満ちた特殊な場所と考えられており、持統天皇が何度も吉野への行幸を行ったのもその霊力の恩恵に授かろうとしたため。天武も昔の偉大な人がよく見てその霊力を認め、「よし(の)」と名付けた吉野の風景を見ながら、吉野の偉大な霊力を感じさせその前で盟約させることで皇子たちの結束をはかろうとしたのだろう。

 かつて、壬申の乱で兄の天智天皇の子である弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷を武力で滅ぼした天武天皇。自分の子供たちには、肉親縁者で争うようなことがないようにと盟約させたわけだが、天武天皇が亡くなった後、この盟約の場にもいた大津皇子が謀反の罪を着せられ処刑されるなど、結局肉親の間での争いと血なまぐさい悲劇が起こってしまう。

(菊池芳文「小雨ふる吉野」)

渡辺始興「吉野山図屏風」(部分)

(壬申の乱の経過)