「いざ吉原へ」3 道筋(3)衣紋坂~大門

 日本堤の土手上から吉原の正門である大門(おおもん。「だいもん」ではなく、京風に「おおもん」と読むのは、「元吉原」が京の六条新屋敷の郭を模してつくられたせいともいわれる)までは、ゆるやかな坂を下っていく三曲がり(S字形カーブ)の「五十間道」(ごじっけんみち)。距離がおよそ五十間(約90メートル)だったことからの命名と言われている。

    「極楽とこの世の間が五十間」

 この五十間道。もともとの設計では直線だったが、町奉行の指導によって道をあえて屈曲させた。そのため、曲線が創り出す死角によって見返り柳からは大門が、大門からは見返り柳が全く見えない。設計変更の理由は、遊客に限らず様々な人が通る日本堤から刺激の強い光景を見えなくするためとも、将軍が鷹狩に御成りの節、大門が見えないようにとの配慮からとも言われる。

 五十間道の両側には、「編笠茶屋」があった。本来は、吉原遊びを大っぴらにしたくない武士たちが顔を隠すための笠を売っていた店だった。吉原の主役が町人に移ると、笠の需要はなくなり、その後は引手茶屋や料理屋などに転業して命脈を保ったが、「編笠茶屋」という呼び名だけは長く残った。また、この道の左手には吉原遊びに欠かせない案内書『吉原細見』(郭内の略図、各妓楼と抱えの遊女の名、揚代、紋日などが一覧表で示されていた)を販売する蔦屋重三郎の店もあった。歌麿や写楽を世に出した版元蔦屋重三郎は、吉原の茶屋に生まれ、細見発行の株を得てから本格的な出版活動を始め、錦絵や黄表紙・洒落本、さらには豪華な絵入り狂歌本などを次々と出版して、吉原の宣伝に努めた。

 五十間道の右手には、「玄徳(よしとく)稲荷」、さらに坂を下りきったところに高札場があった。高札には、「一 江戸市中で隠売女は禁制であり違反する者は五人組にまで責任が及ぶ事」「一 医師の外は乗物では入廓できない」「一 槍・長刀は郭中へ持ち込んではいけない」等の達文が記されていた。茶屋はこの辺りまで客を送って来た。四ツ出駕籠も、この近くでかけ声を止めた。

  「高札場あたりで茶屋は捨言葉」

 いよいよ大門に到着だ。ここから先が遊郭・吉原である。大門は「お歯黒どぶ」で囲まれた吉原の唯一の出入り口。黒塗り板葺きの屋根付き冠木門(かぶきもん。左右の門柱を横木【冠木】によって構成した門)で、吉原に建ち並ぶ豪壮な建物に比べると簡素だった。これは幕府からつねづね万事華美にわたらぬようにとのお達しが出ていたためで、せめて大門だけでも目立たぬようにとの配慮の結果であった。火災にあうたび建て直されるから形は時代によって異なる。大門は、夜明けとともに開門し、夜四ツ(午後十時頃)に閉門したが、その後は脇にある袖門を利用できたので事実上、客は深夜でも出入りできた。

 大門を入ってすぐ左手に、「面番所」と呼ばれる瓦屋根の建物がある。吉原は町奉行所の支配下にあるため、面番所に隠密廻り同心ふたりと岡っ引きが交代で常駐し、不審者や犯罪者が出入りするのを見張っていた。また、大門を入って右手には「四郎兵衛会所」(あるいは「吉原会所」)という吉原サイドの番小屋で、総名主の三浦屋が雇人の四郎兵衛を常勤させて、遊女や未払いの客の脱走を監視したことからついた名称である。

 吉原は男の場合は、遊興であれ商用であれ見物であれ、その目的を問わず出入りは自由である。しかし、女の場合はあらかじめ引手茶屋や四郎兵衛会所に申し込んで「切手」(通行証)を入手しておき、大門を出る際に四郎兵衛会所の番人に提示しなければならなかった。切手を持っていない女は大門から外に出るのを許さなかったからである。遊女が変装して逃亡するのを防ぐための措置だった。

   「大門はすべたも出さぬ所なり」 *「すべた」=不美人な女性を罵っていう語

   「大門はそれ鳥籠の這入口」

広重「東都名所坂つくしの内 吉原衣紋阪之図」   日本堤から見た五十間道

歌川豊春「浮絵和国景跡新吉原中ノ町之図」 吉原から見た日本堤

『絵本江戸土産』宝暦初年【1751】刊行 編笠茶屋

水野年方筆「三十六佳撰 編笠茶屋 寛永頃婦人」

歌川豊春「江戸名所八ヶ蹟 新吉原之図 六」 大門

国貞「北廓月の夜桜」 大門

歌麿「青楼六家撰 扇屋 花扇」

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