「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」16 コジモのパトロネージ④
15世紀前半のイタリア美術史は、ルネサンスと国際ゴシックという、二つの新潮のせめぎ合いと相互浸透の視点から見なければ理解できない。そして、この二つの潮流はいずれも、それまで芸術にあまり関心のなかったブルジョア市民階級が、美術品を熱心に求めるようになってきたという傾向を背景としている。
国際ゴシックは、ゴシック的形象を世俗化し、宗教界から世俗君主の宮廷に対象を移して、社会的地位の上昇を求めるブルジョアたちの憧れをそそりたてた。絵画の面だけに限っても、大壁画や祭壇画とは別に、個人家庭用の礼拝壇や聖母聖者の図像の需要が多くなり、細密画で飾った祈祷書や写本、家財道具に施す世俗的題材の装飾画などが、頻繁にみられるようになった。さらに紋章や旗、トランプの札、刺繍見本、絨毯の下絵などのためにも画家が動員された。国際ゴシックはこうして、日常生活の中に溶け込みながら、市民社会に浸透していったのである。
コジモ・ディ・メディチは、1420年前後にフランス、ドイツをくまなく旅してまわったというから、国際ゴシックの本場で作品も多く見たろうし、その特徴や魅力についてもよく知っていたはずだが、パトロンとしては、国際ゴシックには見向きもしなかった。彼が力を入れて後援したのは、ブルネレスキでありドナテッロであり、要するに真っ向からゴシック美学を否定し、貴族や宮廷文化への憧れとは無縁な、革命的・叛逆的な美術家たちであった。しかしかれらの影響力はフィレンツェ市内に留まり、外へ影響をひろげることはできなかった。国際ゴシックのように口当たりのよい親近感を抱かせないルネサンス派の作品は、なかなか広く受け入れられず、国際ゴシックの攻勢の前に、苦戦を強いられていた。
ルネサンス美術がその地方性から脱して全イタリア、ひいては全ヨーロッパの美術界を制覇し、芸術の新時代を開くのは、14世紀後半から16世紀にかけてのことになるが、その方向への推進力となったのが、コジモの精力的なてこ入れだった。ではコジモは、どのような構想の下にルネサンス美術を勝利に導こうとしたのか?
まずはフィレンツェを制覇することであり、そのためにフィレンツェの町並みを徹底的に「ルネサンス化」してしまうことである。その中心となるのは何といっても大聖堂に威容を示すブルネレスキの円蓋だ。コジモが追放地から帰還した時には完成に近づいており、2年後には献堂式を行う予定になっている。ブルネレスキはほかに捨子養育院と、サンタ・クローチェ聖堂前のパッツィ家礼拝堂の建築を請け負っていた。コジモはそのブルネレスキに、サン・ロレンツォ聖堂の全面改築を委ね、ラルガ街の自邸の建て替えをミケロッツォに依頼し、さらにドメニコ会革新派を応援してサン・マルコ修道院を全面改築させ、建築をミケロッツォに、装飾をフラ・アンジェリコに任せる。
こうして都市景観の「ルネサンス化」を推進する一方で、コジモが力を入れたのは、新人の発掘と育成だった。生き生きとした想像力の遊びと、絵を見る楽しさに満ちた国際ゴシックに対して、歴史、自然、人間、空間と時間という大問題に肉薄して、美術を時代の知の第一線に押し上げようとするルネサンス美術は、しだいに若くて野心的な美術家の心をとらえるようになる。
1440年代に入ると、フィレンツェ領内を完全に制覇したルネサンス美術は、爆発的な攻勢に向かう。中心となったのはドナテッロ。切り込む先はヴェネツィア共和国領内のパドヴァ。ヴェネツィア軍の中枢にあって力戦奮闘した傭兵隊長ガッタメラータ騎馬像の建立である。完成は1453年。その影響は圧倒的だった。スケールの大きさでも、思想の深さでも、表現の強烈さでも、技術の高さでも、もはや太刀打ちできないことを、国際ゴシック派は知らずにはいられなかった。パドヴァだけでなくヴェネツィア共和国全体が震撼した。ドナテッロの影響を強く受けたマンテーニャは、義兄弟が営むベリーニ工房をルネサンス派へ転換させ、そしてヴェネツィア・ルネサンスが始まることになる。
ブルネレスキ「捨子養育院」フィレンツェ
ドナテッロ「ガッタメラータ騎馬像」(1453年) サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場 パドヴァ
ドナテッロ「ガッタメラータ騎馬像」(1453年) サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場 パドヴァ
国際ゴシックの代表作① シモーネ・マルティーニ「受胎告知」ウフィツィ美術館
国際ゴシックの代表作② ピサネッロ「ウズラの聖母」カステルヴェッキオ美術館
国際ゴシックの代表作③ ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」ウフィツィ美術館
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