「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」13 コジモのパトロネージ①

 コジモのパトロン活動はメディチ家の巨大な財力を背景とし、権力の誇示や政治的影響力の拡大という目的を持っていたことはもちろんだが、それを越える広がりと奥行きを持っていた。そこには、人文主義的知識人としてのコジモ自身のユニークな個性が深く関与していた。ダンテやボッカチオ以来の伝統を持つフィレンツェの人文主義は、14世紀末に東ローマ帝国の神学者クリュソロラスがストゥーディオ(1321年に市政府が創設した大学)に招かれてギリシア語の講座を開いたことが刺激となって大きな高まりを示し、15世紀前半にかけて古典古代の文学や学問のリヴァイヴァル運動が少数の上層市民の間でブームを引き起こした。コジモは、こうした古典研究ブームの影響下で生育したエリート知識人のひとりだった。

 コジモは国内外からあらゆる情報を集めて貴重な写本の収集に力を入れる一方、親しい友人のニッコロ・ニッコリ(1364―1437 当時最大の写本収集家)らの収集活動を金に糸目をつけずに援助した。そして1437年にニッコロ・ニッコリがコジモへの莫大な借金を残して死去すると、コジモはその全蔵書800冊(当時のフィレンツェで最大の書籍コレクション)を担保がわりに引き取り、これを基礎にしてサン・マルコ修道院内に図書館を創設した(1444年)。寄進に際してコジモは、市民への公開を条件にしたと言われ、ミケロッツォ設計のこのサン・マルコ図書館はヨーロッパで最初の公共図書館となる。

 また1439年にフィレンツェで東西両教会の合同会議が開かれた際、コンスタンティノープルから著名なプラトン学者のベッサリオン(のちにイタリアに帰化して枢機卿となる)やプレトンが来訪して注目を集めると、コジモは特にプレトンと個人的交わりを持ち、彼の提案によって古代ギリシアの「アカデメイア」にならった「プラトン・アカデミー」(アカデミア・プラトニカ)を構想する。このプラトン・アカデミーは、組織的な学校や団体ではなく、フィレンツェにいくつか見られた私的な学術サークルのひとつであったが、コジモは、将来のこのサークルの中心人物として、侍医の息子のマルシリオ・フィチーノに白羽の矢を立て、生活費を全面的に援助して(市内に家を、カレッジに農地を与える)ギリシア語・ラテン語の習得に専念させた。フィチーノは、この期待に応えて、やがてイタリア随一のプラトン学者に成長し、コジモの生前からプラトンの全著作のラテン語訳に着手するのである。フィチーノは、コジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコへの手紙で、コジモのことを愛情をこめて次のように回想している。

「私は12年以上にわたって彼とともに哲学に身を捧げました。彼は政治において慎重で剛健であったように哲学の議論において鋭敏でした。たしかに私はプラトンに多くを負っていると言わねばなりません。しかしプラトンが一度だけ勇気という理念を私に示してくれたとしたら、コジモはそれを毎日私に示してくれました・・・彼はこの闇の世から光の国に旅立つ最後の日まで知識の獲得に献身的でした」

 人文学研究への援助や書籍コレクションが私的な性格の強いものであったとしたら、建築活動への援助は明らかに公的性格の強いものであり、パトロンとしてコジモの業績が最も目に見える形で残っている。建築パトロンとしてのコジモの活動は一市民として前例のないスケールを持っていた。それだけではない。彼は特別な建築的素養の持ち主であった。コジモの友人の伝記作家ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチは述べている。

「彼が残した建物からわかるように、彼は建築にきわめて精通していた。どの建物をとっても彼と相談せずに建てられたものはない。そればかりかこれから建物を作ろうとする人は誰もが彼のもとに助言を求めてやってきた」

 メディチ家が属する教区の教会であるサン・ロレンツォ教会の改修工事は、ブルネレスキの設計により、父ジョヴァンニ・ディ・ビッチの代から始まっていたが、コジモがパトロンとなってからは工事のスピードが一挙に速まった。そして、コジモの死の5年後に全体が完成した時、サン・ロレンツォ教会はすでに教区教会ではなく、実質的にメディチ家の家族教会堂となっていた。

サン・マルコ図書館

マルシリオ・フィチーノ

左から2番目がマルシリオ・フィチーノ(ギルランダイオ画 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会トルナブオーニ礼拝堂 )

プラトン・アカデミーの本拠地となったメディチ家のカレッジの別荘

サン・ロレンツォ教会ファサード 現在も未完のまま

サン・ロレンツォ教会ファサードの模型(ミケランジェロ作)

サン・ロレンツォ聖堂 身廊

サン・ロレンツォ教会の回廊

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