「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」12 コジモ・ディ・メディチ(5)全盛

 コジモはフィレンツェに帰還した翌年の1435年、メディチ銀行の組織を再編し、子飼いの番頭ジョヴァンニ・ベンチを総支配人に任じ実務の大半を任せたが、ベンチは忠実かつ有能に職務を果たし、コジモの絶大な信頼を得て、メディチ銀行の大躍進に貢献した。1435年以降の経営戦略において最も目立つ点は、国内外の支店の拡大である。国外では、最初の外国支店であるジュネーヴ支店(1426年開設)につづいて、公会議の開催地であるバーゼル(1433年)、北ヨーロッパの金融と商業の中心地であったフランドルのブリュージュ(1439年)、ロンドン(1446年)、アヴィニョン(1446年)に支店が開設され、ドイツのハンザ同盟都市リューベックには駐在員が置かれた。イタリア国内では、アンコーナ(1436年),ピサ(1442年)、ミラノ(1452年)にそれぞれ支店が開かれた。

 これらの支店網はそのままメディチ党の資金源でもあれば情報網でもあり、銀行業務はそのまま貿易をも兼ねた。またコジモは、1420年にリストラらの対象となって整理縮小した毛織物会社を復活させ、さらに1436年に絹織物業にも本格的に進出している。その動機は明らかに政治的なもの、すなわち失業対策として発想された。メディチ党の大切な支持基盤は無権利の庶民大衆。彼らにそっぽを向かれたのでは、全市民集会からバリーア(臨時執行委員会)という、メディチ家のお家芸も発揮できない。この時代の銀行業はどの店でも10人内外かそれ以下の行員数で営業しているので、雇用対策としては銀行の店舗を増やしても効果はない。なんと言っても製造業、それも織物工場にかぎるわけだ。

 コジモがフィレンツェ共和国で掌握した経済的・政治的権力は、国際的な影響力を彼に与えた。彼は、その卓抜な政治的判断力と幅広い対外人脈を生かして、フィレンツェ外交の進路を方向づけた。公式の外交交渉は政庁を通じて行われたが、重要な外交・軍事方針が陰の支配者であるコジモの意を体さずに決定されることはなかった。メディチ邸には外国の大使や賓客が頻繁に出入りし、国内外のメディチ銀行の支店からは豊富な政治情報がコジモのもとに寄せられた。

 コジモの基本的な外交方針は、イタリアの五大国家(フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、ローマ教皇国、ナポリ王国)の勢力均衡を図ることであり、それによって1世紀にわたる絶え間のない戦争の時代に終止符を打ち、フィレンツェに平和の時代をもたらすことであった。傭兵を用いての戦争は莫大な出費を要し、それは直接フィレンツェ市民の方に途方もない重税となってのしかかり、政府を慢性的な財政難に陥れていた。軍事状況の安定化が商業活動の発展にとっても不可欠であったことは言うまでもない。覇権確立後の10年間、コジモはローマとヴェネツィアとの長年の同盟関係を維持しながら、ヴィスコンティ家のミラノの領土拡張政策に対抗することに努めた。メディチ銀行はローマ支店とヴェネツィア支店で最も高い利益をあげており、フィレンツェ共和国の利害とメディチ銀行の利害とも一致していた。また、ミラノのヴィスコンティの対フィレンツェ攻勢にはメディチ政権の打倒を目論むリナルド・デリ・アルビッツィも加担しており、ミラノとの対抗はメディチ家にとっても不可避であった。1440年、フィレンツェの傭兵隊はアンギアーリにおいてミラノの傭兵隊を打ち破り、カゼンティーノ地方を併合する。

 しかし、1450年以降、コジモは外交方針を180度転換し、フランチェスコ・スフォルツァのミラノ公国と同盟を結ぶ。コジモは、当時のイタリアで最も強大な傭兵隊長と言われたフランチェスコ・スフォルツァに対して、彼が丸毛地方に小領国を有していた時代から資金援助を続けていたが(強力な軍事力の保持者との私的な提携はコジモのフィレンツェ内での立場を隠然と保証することになり、メディチ銀行のアンコーナ支店はスフォルツァへの資金援助の役割を担っていた)、彼がフィリッポ・マリア・ヴィスコンティの跡を継いでミラノ公の座に就くと、従来のミラノ敵視政策を一転し、1451年12月、スフォルツァとの同盟を締結するのである。

「幻のスフォルツァ騎馬像」名古屋国際会議場 

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ時代にフランチェスコ・スフォルツァ騎馬像の制作にあたったが、傭兵隊長時代からコジモはフランチェスコを支援していた

ルーベンス「レオナルド・ダ・ヴィンチ『アンギアーリの戦い』の模写」ルーヴル美術館

レオナルド・ダ・ヴィンチ「ジネブラ・ベンチ」ワシントン・ナショナル・ギャラリー 

 ジネヴラ・デ・ベンチはジョヴァンニ・ベンチの孫娘

メディチ・リッカルディ邸 

 1444年にコジモ・ディ・メディチがミケロッツォに設計を依頼したメディチ家の邸宅で、メディチ家の私邸宅兼、メディチ銀行の本社として使われていた。17世紀には、リッカルディ家の手に渡り、大規模な修復が行われ、現在のカヴール通りに面した部分が延長された。

メディチ・リッカルディ邸

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