「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」11 コジモ・ディ・メディチ(4)「独裁」
9月28日、コジモはヴェネツィアを出発し、10月6日にフィレンツェ郊外のカレッジの別荘に到着。市民は熱烈歓迎の用意をして待ったが、コジモはお祭り騒ぎの主役になることを避け、供を連れずに弟ロレンツォと二人、裏通りを通って市庁舎に入った。ともあれ、この日からフィレンツェの歴史は新しい章に入る。メディチ独裁時代が始まる。
しかし「独裁」といっても、法制的・形式的には、その前の時代と何も変わったところがなかった。自由共和の制度にも建前にも、コジモはいっさい手をつけず、いつもそれを尊重していた。メディチの権力とかコジモの独裁とかいっても、役職に就いていない間はただの一市民であり、役職に就いても任期はわずか2か月。帰国してから死ぬまでの約30年間にコジモが「正義の旗手」、すなわち法制上の最高権力の地位に就いたのは断続して3期、計6カ月に過ぎず、閣僚にあたる「総務」の椅子には一度も座っていない。だから生涯のほとんどを単なる一市民、一銀行家として過ごしたわけだが、彼の実質的な独裁権は30年間揺るがなかった。彼は事実上国王であり、その地位は子から孫へと世襲された。要するにメディチ独裁とは、メディチを首領と仰ぐ一党派の独裁だったのであり、コジモはその党派の頂点にあって、絶対的な権威を振るったのだ。
陰謀や武力によるのではなく、ひたすら時機の到来を待つことによって覇権を手中にしたコジモは、いかにしたらこの烈しい党派抗争の町フィレンツェで権力を維持することができるかをよく理解していた。それは、表向きは従来の寡頭共和制を維持しつつ、その裏で絶対的な多数派を形成し、自家の権力支配を不可逆的に固定化することである。コジモは、それをどのようにして実現したのか?
共和政のフィレンツェでは、主要な役職選挙が抽選で行われ、被選挙人資格を確定し抽選の管理にあたる委員会が決定的な役割を持つ。コジモはこの選挙管理委員会のメンバーを細心の配慮でメディチ党から選定し、その権限を拡大し、任期も延長した。そして、コジモの息のかかった人物の名札だけを袋に入れるという操作を行った。また、公安委員会を変容、強化して政治警察の役割を果たすようにさせ、8名の公安委員をメディチ党で独占し、メディチ党にとって危険と思われる人物を常時監視下に置いた。こうしてコジモは共和制体制を徹底的に形骸化したが、ただ古い機構を骨抜きにしただけでは統治は不安定になるだけ。新しい政策を強力に実行するためにどうしたか?
コジモが最大限に利用したのが「バリーア」(臨時執行委員会)。この委員会は、非常の際に召集される全市民集会で選出され、共和国の伝統的諸機関の上に立ってその権限を集中する機構だが、メディチ政権成立以来、この委員会はほとんど常置に近くなり、コジモ自身が常に10人の委員の一人として出席した。この委員会の権能はほとんど無限に近く、その決定に待ったをかけられるのは全市民集会しかない。ところが全市民集会の多数を占めるのは無権利・無産の庶民大衆であり、彼らの間でメディチ家の信望は圧倒的である。この底辺の支持こそが、メディチ家支配の最後の、絶対的な安全弁であることを、コジモは熟知していた。
以上のような「改革」を徐々に、静かにやってのけて政権を盤石の基盤に置いた後、コジモは下層民衆の支持をメディチ側に確保する手段を一挙に打ち出す。税制の抜本的改革(1443年)である。50フィオリーニ以下の低所得者には4%、1500フィオリーニ以上の高額所得者には33%の所得税を課す累進所得税制(世界最初)。下層民衆が拍手喝采したのはもちろんだが、金持ち連中は大慌て。所得額の査定にも当然メディチ党の意向が働く。収入を厳しく見積もるか、甘く査定するか、そのさじ加減で税額は大きく違ってくるから、富豪の多くが争ってメディチ家への忠誠を強めることになった。4年後には最高税率を50%にしたから、メディチ党にとって目障りな名家の国外流出が相次いだ。
ヴァザーリ「コジモ・ディ・メディチの帰還」ヴェッキオ宮殿 コジモ・イル・ヴェッキオの間
ルイジ・マージ「祖国の父コジモ」ウフィツィ・ギャラリー
ジュゼッペ・ゾッキ「カレッジのメディチ家別荘」1744年
メディチ家のカレッジの別荘
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