「いざ吉原へ」1 道筋(1)~日本堤

 吉原は市中の良風美俗を乱さぬようにと、市街を外れた浅草寺裏手の辺鄙な地域にあったから、遊郭通いにはかなりの時間がかかった。吉原に行くには、どこから出発するにしても最後は日本堤(にほんづつみ)に出なければならない。日本堤に至る道筋は大別して四つ。

(1)徒歩または駕籠①  

 浅草寺東側沿いの「馬道」を北進して日本堤に出る。禁止されるまで、馬で吉原へ行くときにはこの道を使ったため、こう呼んだ。

(2)徒歩または駕籠②  

 上野の東側を北上して三ノ輪に出るもので、神田方面から徒歩や駕籠で来る場合はこの道が早い。

(3)徒歩        

 浅草寺裏手の田んぼ道(あぜ道)伝いに日本堤に出る。利用者が少なく、知人と鉢合わせするきまり悪さを避けられた。近道だが、暗くなってからは物騒だった。

(4)舟+徒歩または駕籠 

 柳橋当たりの船宿から猪牙舟で隅田川をさかのぼって山谷堀に入り、船宿に上がってからは徒歩か駕籠で日本堤を行く。「吉原がよい」として、多くの文芸作品にも描かれた道筋。具体的には以下の通りだ。

 江戸城の外堀である神田川と隅田川の上流地点に位置する柳橋は、乗船のターミナルとして人気が高かった。柳橋の周りには遊客をあてこんだ船宿や料理茶屋が密集していた。

「柳橋から 小舟で急がせ 舟はゆらゆら 波次第」(江戸端唄『梅は咲いたか』)

 この小舟は猪牙(ちょき)舟。一人乗りの高速船。柳橋から山谷堀まで三十町(約3.3㎞)、148文(1文20円として約3000円。今のタクシーの倍くらいの料金か)であった。

 「突出すとぐるりと猪牙は北へ向き」

 隅田川を北上しはじめると、すぐに西岸に見えてくるのが御米蔵。全国の幕府直轄領から送られてきた年貢米の備蓄倉庫で、およそ四万坪という広大な土地に八本の堀が通っていたのだが、四番堀と五番堀の間に通称「首尾の松」と呼ばれる、川面に届くほど枝ぶりのいい松がはえており、多くの浮世絵の題材にもなっている。なんでも遊客たちが、これから吉原に向かう者は今夜の、帰る者は昨晩の首尾に思いを馳せたことがその名の由来と考えられており、切絵図にも描かれている。

 川の右手、「首尾の松」のほぼ対岸に肥前平戸新田(長崎県平戸市)藩松浦(まつら)家の上屋敷がある。屋敷内に椎の木の大木があり、舟からもよく見えたことから「椎の木屋敷」、俗に「嬉しの森」と呼ばれた。

  「椎の木は殿さまよりも名が高し」

 吉原をめざす男たちにとって、舟からながめる「首尾の松」と「椎の木」は有名だった。

  「松へ来た椎の木へ来た面白さ」

 続いて現れる浅草寺の駒形堂。これを見れば、江戸人であれば知らない人はいない伝説の遊女・万治高尾が詠んだ俳句を想起せずにはいられない。

  「君はいま駒形あたりホトトギス」

 吾妻橋を抜けて待乳山が見えてくると、山谷堀まであとわずか。速度を落とした舟が、左に折れて今戸橋をくぐる。桟橋が近くなると、船頭が客に馴染みの船宿を尋ねる。「どちらにつけやしょう」「佐野屋につけてくれ」船宿を確かめると、船頭が大きな声で呼びかける。「佐野屋ぁ~」その声を聞いて、船宿から若い者や女中が飛び出して来て客を迎える。「よく、いらっしゃいました」船から降りた客は、この船宿で一服するか、もしくは仲間と待ち合わせた料理茶屋で芸者を呼んで景気づけの宴席を、というニーズが多かった。その後、徒歩か駕籠で日本堤を吉原に向かうのである。

広重「江戸高名会亭尽 柳ばし夜景 万八」

広重「江戸高名会亭尽 両国柳ばし 梅川」

「江戸切絵図」のうち「東都浅草図」より浅草御蔵の部分

広重「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」

国貞「江戸名所百人美女 首尾の松」

高橋弘明「大川首尾の松」

国貞「古今名婦伝 万治高尾」

月岡芳年「都幾の百姿 たか雄  君は今駒かたあたりほとゝきす」

広重「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」

鈴木春信「風流江戸八景 駒形秋月」

北斎「馬尽 駒形堂 御厩川岸」

広重「東都名所 真乳山之図」

広重「東都名所之内 隅田川八景 真乳山晴嵐」

広重「江戸高名会亭尽 今戸橋之図」

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