「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」15 コジモのパトロネージ③

 建物があれば、当然そこを飾る彫刻や絵画が必要になる。コジモは画家や彫刻家にとっても重要なパトロンだった。

 画僧フラ・アンジェリコはサン・マルコ修道院の壁画を制作しただけでなく、付属聖堂の主祭壇のための祭壇画「サン・マルコ祭壇画」も描いている。聖母の前に跪いているのは、メディチ家の守護聖人聖コスマスと聖ダミアヌス。伝説によれば、コスマスとダミアヌス(イタリア語でコジモとダミアーノ)の双子の兄弟は古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝時代に殉教した医者だった。9月27日が両聖人の祝日であり、メディチ家のコジモとダミアーノの双子の兄弟はこの日に生まれた。しかもメディチはイタリア語で医者の意味なので、守護聖人とするにはうってつけ。15世紀の医者は赤い丸い帽子に長いガウンを身につけていた。メディチ家のダミアーノは生まれた翌年に死んだため、画中の聖ダミアヌスは後ろ向き。一方、画中の聖コスマスは悲愴なパトスをうちに秘めた表情を観者に向けている。これはコジモ自身が観者に見てほしい自己イメージ、彼岸と此岸の仲介者としての自己イメージのようだ。

コジモは、フラ・アンジェリコとは対照的な破天荒な画僧フィリッポ・リッピとも懇意な間柄で、公私にわたってその面倒を見た。ヴァザーリはこう記している。

「噂によると、このフィリッポはたいへんな女好きで、自分の気に入った女を見かけると、その女をものにすることができるなら、自分の持ち物はすべてくれてやるような男だった。」

 そして、50歳の時「ルネサンス史上最大のスキャンダル」と呼ばれる事件を起こしてしまう。なんと20歳の修道女ルクレツィアと駆け落ちをしてしまったのだ。やがてルクレツィアは出産(後の画家フィリッピーノ・リッピ)。「神に仕える身でありながらなんと罪深い男なのだ」と告発状が出される。このままいけば、死罪は免れない。しかし、そんな窮状を救った人物がいる。メディチ家当主コジモ・ディ・メディチ。ローマ教皇に手紙を書き助命を嘆願した。

「フィリッポ・リッピは、素晴らしい芸術家であり私の親友でもあるがそれ以上に自由で素直な心を持った人物である。その自由を抑圧することは神も決して喜ばないはずだ・・・・」

 その他にも、コジモはアンドレア・デル・カスターニョ、パオロ・ウッチェッロ、ロレンツォ・ギベルティなど、ルネサンスの偉大な芸術家たちのパトロンとなったが、単なる注文主と芸術家という関係にとどまらず、深い友情で結ばれていたのが彫刻家ドナテッロである。コジモは、父の生存中ドナテッロが「バルダッサレ・コッサ(教皇ヨハネス23世)の墓碑」を洗礼堂に作ったときからこの気性の激しい天才彫刻家をよく知っており、メディチ家にゆかりの深いサン・ロレンツォ聖堂のための重要な作品を次々に委嘱した。

 さらに、新しいメディチ邸の中庭の奥の庭園に置かれていたドナテッロの二大傑作「ダヴィデ」と「ユーディトとホロフェルネス」の委嘱も、コジモと深い関わりを持っている。

 ヴァザーリによれば、コジモは年老いたドナテッロの生活を心配して、息子のピエロに自分の死後もその面倒をみるように遺言したという。ピエロは、父の意志を守って、老彫刻家が安楽に暮らせるようカファジョーロの農地を贈った。しかし、根っから金銭に無頓着なドナテッロは、農民との厄介な付き合いに嫌気がさして1年もせずしてこれを返上してしまった。ピエロはしかたなく、彼に農地の収益と同じ生活費を保障し、ドナテッロはメディチの僕、友人として心配なく余生を送ったという。そして、コジモの死の2年後に80歳の高齢で死去すると、その遺言に従って、サン・ロレンツォ聖堂のコジモの墓の近くに埋葬されるのである。

「コジモは、生前いつも心を寄せ合っていたように、死後も体を寄せ合っていたいと願って、遺言でこう命じたのである」(ヴァザーリ)

フラ・アンジェリコ「サン・マルコの祭壇画」(1438年 - 1443年) サン・マルコ美術館 フィレンツェ

フラ・アンジェリコ「聖コスマスと聖ダミアヌスの殉教」ルーヴル美術館

フラ・アンジェリコ「受胎告知」フィレンツェ サン・マルコ美術館

フィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」ウフィツィ美術館

 破天荒な破戒僧でなければ、こんなマリアは描けないだろう

フィリッポ・リッピ「幼児キリストを礼拝する聖母マリア」ベルリン国立絵画館 コジモ・ディ・メディチが注文し、メディチ邸に置かれていた

ドナテッロ「ダヴィデ(ブロンズ)」バルジェッロ美術館

ドナテッロ「ユーディットとホロフェルネス」

ドナテッロ「マグダラのマリア」

 ドナテッロの激しい性格がよく表れている時代を超越した表現主義的な作品

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