「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」13 コジモ・ディ・メディチ(6)ローディの和
コジモの初期の外交的成功を象徴するのが、1439年フィレンツェで開催された東方教会とローマ教会の合同会議である。この公会議は、反教皇派のバーゼル公会議(対立教皇フェリクス5世を選出)に対抗して、エウゲ二ウス4世がフェッラーラに東方教会の代表団を招いて開催したものであるが、コジモは親しい間柄の教皇エウゲ二ウス4世に資金提供を申し出て(会議が長引き教皇の資金不足が深刻になる中でフェッラーラでペストが発生)、公会議の場所をフィレンツェに移させたのである。
東ローマ皇帝ヨハネス・パレオゴロス8世とコンスタンティノープル総主教に率いられた総勢700人の大使節団の来訪は一大スペクタクルをうみだし、フィレンツェは一時的に華やかな国際的文化交流の舞台と化した。この一大イヴェントは、コジモ治下のフィレンツェの繁栄と政治的安定を国際的にアピールすることになっただけでなく、当時のフィレンツェの人文主義文化の発展に大きな刺激を与えることになった。
7月6日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、ローマ教皇をキリスト教世界における最高の代表とするという合同宣言がギリシア語とラテン語で読み上げられた後、両教会の代表は互いに友好の接吻を交わし、東ローマ皇帝はローマ教皇の前に跪いた。しかし、遅すぎた。この時期にはもう、東方でのイスラムの進出を食い止めることは誰にもできなくなっていた。皇帝と大主教が故国に帰って反対派に激しく非難され、合意が実現しないでいる間に、西方から派遣したキリスト教軍はバルカンで大敗し、トルコ軍はひたひたとコンスタンティノープルに迫る。1453年、14万のトルコ軍に包囲された東ローマ帝国の首都は陥落してしまう。
コジモは1451年12月、フィレンツェ国内の強い反対を押し切って従来のミラノ敵視政策を180度転換し、フランチェスコ・スフォルツァのミラノ公国と同盟を締結したのも、スフォルツァとの緊密な個人的関係もさることながら、強国ミラノとの同盟関係がイタリアの新しい勢力均衡をつくりだすうえで鍵になると判断したからだ。コンスタンティノープルが陥落すれば精強なトルコ軍団がいつイタリア沿岸に進攻してくるか分からないし、フランス王国も民族統一を固めつつ膨張の気配を示していた。イタリアで同胞相食む争いを繰り返しているわけにはいくまい。フィレンツェとミラノの同盟は、フランスやジェノヴァを含んだ同盟に拡大され、ヴェネツィアとナポリに敵対することになったが、1453年にコンスタンティノープルが陥落すると、イタリア諸国はにわかに危機感を強め、1454年、ローディにおいて五大国(フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、ローマ教皇国、ナポリ王国)の和平協定が結ばれた。
この「ローディの和」は、1世紀にわたって続いたイタリア諸国家の戦争の時代に終わりを告げ、その後40年にわたって「イタリアの平和」の時代をもたらすことになった。コジモの外交政策は、フィレンツェの繁栄にとっても、イタリア諸国の勢力均衡にとっても功を奏するものであり、メディチ体制にも安定をもたらすのである。
ところでコンスタンティノープルの陥落は、学芸復興という意味でのルネサンスの種子を、イタリアの土壌に蒔くことになる。ギリシアの学者文化人が大挙してイタリアやフランスに亡命、滅びた祖国の学芸の精髄を西欧に伝えたからだ。それまでギリシア語の原点が読める学者はごくわずかで、アラビア語から重訳されたラテン語でアリストテレスを読むのが普通であったところへ、本場の正確なテキストと博学の専門家が大量に入ってきたのだから、イタリアの学界、思想界に大変化が起こらなければ不思議である。フィレンツェは先の公会議に東方の大学者たちを迎え、早くからその謦咳に接していたから、消化も一番早かった。文化人の多くが新しく紹介されたプラトン哲学の魅力に酔い、キリスト教文化の前駆形態としての古典古代文化という発想(己の信仰と古典的題材との関係が対立的なももでなくなる)が、ウマニストたちを魅了した。こうして、共和主義イデオロギーはウマネジモの主潮から浮遊してしまう。そうなればウマネジモは、メディチ独裁にとって有益なだけで害はなく、思う存分これを後援することができるのである。
こだけの城壁があっても、1453年、メフメト2世によってコンスタンティノープルは陥落した
ジェンティーレ・ベリーニ「メフメト2世」ロンドン ナショナル・ギャラリー オスマン帝国の第7代スルタンでコンスタンティノープルを陥落させた
コンスタンティノープル陥落
コンスタンティノープルに入城するメフメト2世 (ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン,1876)
ベネッツォ・ゴッツォリ「東方三博士の旅」メディチ・リッカルディ宮殿 部分 「ヨハネス・パレオゴロス8世」
ベネッツォ・ゴッツォリ「東方三博士の旅」メディチ・リッカルディ宮殿 部分 「ヨハネス・パレオゴロス8世」
ピサネッロ「ヨハネス・パレオゴロス8世」
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