2021.10.18 22:44「マリー・アントワネットとフランス」23 マリー・アントワネット処刑 ルイ16世の死刑執行は1793年1月21日、そしてマリー・アントワネットのそれは9か月後の10月16日。革命政府にとって、古い社会の残滓を一掃するために、旧体制国家を象徴する国王の死は必要だった。しかし、制度上は何の政治的権限も持たない王妃の死は必要ではなかった。むしろ、オース...
2021.10.17 23:10「マリー・アントワネットとフランス」22 ルイ16世処刑 1792年9月21日、立法議会は解散し、代わって国民公会が成立。ダントン、マラー、ロベスピエールら有力革命家がずらりと顔をそろえるこの国民公会は、フランス史上初めて普通選挙で選ばれた議会だった。9月21日の最初の会合で王政廃止が宣言される。ここに、千数百年続いた王政は正式に廃止...
2021.10.16 23:01「マリー・アントワネットとフランス」21 革命の光と闇 タンプル塔に閉じ込められてからのマリー・アントワネットの心の支えは、外国軍によよって自分たちは解放される、という希望だった。実際、8月下旬にオーストリア軍とプロイセン軍がフランス領内に進攻し、パリめざして進行中であることを知った。しかし、9月20日、マリー・アントワネットの希望...
2021.10.15 23:54「マリー・アントワネットとフランス」20 1792年「8月10日」ついに1792年8月10日、パリの民衆は連盟兵団とともにテュイルリー宮殿に攻め寄せ、守備についていたスイス人傭兵隊との銃撃戦の末に、宮殿を制圧した。この間、国王一家はどうしていたか? 前夜から宮殿内にいたセーヌ県の最高幹部レドレールは、ルイ16世に国会に避難するように勧告されてい...
2021.09.28 02:00「マリー・アントワネットとフランス」19 1792年6月20日 ルイ16世は内務大臣ロランの必死の訴え賭けにも耳を貸さない。それどころか、3日後にはロラン大臣を罷免する旨の手紙を送りつける。ルイ16世もマリー・アントワネットも、自分たちの追い込まれている危機的状況を理解できず、王家が生き残る最後のチャンスを失なってしまった。6月20日、国王...
2021.09.27 01:50「マリー・アントワネットとフランス」18 拒否権発動 1791年9月、新しい国家体制、立憲王政が成立。フランス史上初の憲法「1791年憲法」の制定である。ヴァレンヌから連れ戻されたばかりの頃は、国王の廃位まで問題にされていたが、事件後の混乱が収拾され、バルナ―ヴらの活躍もあってなんとか立憲王政が成立したのだ。その中身は国王にとって...
2021.09.26 03:18「マリー・アントワネットとフランス」17 「ヴァレンヌ逃亡事件」1791年6月20日夜半、王一家のパリ脱出劇が決行された。「ヴァレンヌ逃亡事件」である。目指すはベルギー(ハプスブルク領ネーデルラント)国境に近いモンメディ。このオーストリア軍の支援が得られる土地に国王が軍隊とともに身を落ち着け、そこで権力奪回に向けた作戦を練るという計画だった。...
2021.09.25 00:26「マリー・アントワネットとフランス」16 パリ脱出計画 ルイ16世もマリー・アントワネットも、革命と和解することに努めているかに見えたが、革命によって王権に制限が加えられたことは彼らにとって大きな不満だった。「長い時代にわたって私の家系に確保されてきた国王の尊厳が、私の代で卑しめられるがままに放置することはできません。そうならないよ...
2021.09.24 02:55「マリー・アントワネットとフランス」15 テュイルリー宮殿 午後の早い時間に始まったパリへの旅は7時間もかかった。王宮の倉庫から出された小麦粉を積んだ車、それを引っ張る女性たち。市民軍。群集に取り囲まれた国王・王妃らの馬車。それだけではない。朝の虐殺の被害者たちの首も槍の先に刺されて同道した。首を槍に突き刺して街を練り歩くことは、バスチ...
2021.09.22 00:17「マリー・アントワネットとフランス」14 「ヴェルサイユ行進」ルイ16世は、「封建的特権の廃止」宣言、「人権宣言」に問題点を指摘しつつも、議員たちの高飛車な要求に応じ、それら法令の「相対的な精神」を受け入れ「公告」する旨伝えた。国王の譲歩に満足した議会は、国王に拒否権を6年間認めることを可決した(国王に拒否権を与えるかどうかは、国民議会にお...
2021.09.21 01:28「マリー・アントワネットとフランス」13 革命勃発 マリー・アントワネットが初めてヴェルサイユ宮殿に入ったのは1770年5月16日。そして、強制的にヴェルサイユ宮殿を去ってパリに移住(テュイルリー宮殿)させられるのは1789年10月6日。14歳だったアントワネットは33歳になっていた。7月14日の「バスティーユ陥落」の報がヴェル...
2021.09.20 01:51「マリー・アントワネットとフランス」12 三部会開催と長男の死 「首飾り事件」(判決は1786年5月31日)はマリー・アントワネットにとって非常に辛い試練だったが、夫との絆を強める契機にもなった。二人は協力して問題に対処するようになる。マリー・アントワネットは「慎重さ」を学びとり、取り巻きとは距離を置き、国全体のことを考えるようになる。彼女...