「マリー・アントワネットとフランス」16 パリ脱出計画
ルイ16世もマリー・アントワネットも、革命と和解することに努めているかに見えたが、革命によって王権に制限が加えられたことは彼らにとって大きな不満だった。
「長い時代にわたって私の家系に確保されてきた国王の尊厳が、私の代で卑しめられるがままに放置することはできません。そうならないようにする責務を、私は自分自身に対して、子供たちに対して、家族に対して、従者全員に対して負っています・・・。」(1789年10月12日付 スペイン国王カルロス4世宛ルイ16世の手紙)
ルイ16世は、表面上は革命の現状を是認し、革命支持を公言しながら、もう一方においては、国王として失った権限を何とか回復したいと願う。
1790年2月4日、ルイ16世は国会に出向いて演説し、起草中の憲法を支持する、王妃も支持していると言明。この演説は議員たちから嵐のような拍手で迎えられた。バスティーユ襲撃一周年の1790年7月14日、「全国連盟祭」がシャン・ド・マルスで盛大に開催された。フランス人として一つにまとまろうという願いの下に行われたこの祝祭には、フランス全土から馳せ参じた人々とパリの人々、合わせて40万人が参加した(当時のパリの人口は60万)。会場は終始熱気に包まれていたが、ルイ16世が「国民と国法に忠誠を誓う」と宣誓した時には会場の雰囲気は最高潮に達した。マリー・アントワネットが王太子を抱き上げて群衆に示した時、「王妃万歳!」「王太子万歳!」の歓声が会場一杯に響き渡った。しかし、この「全国連盟祭」から11か月後に国王一家はパリ脱出を決行する(「ヴァレンヌ逃亡事件」)。この間に何が起こったのか?
革命勃発直後から、ルイ16世は何度か家族は避難させようとしたが、自分が逃亡することは拒否してきた。自分はフランス国王である、民の幸福をはかるのが国王の務めである、国王たる自分が国民を見捨てて逃げるなどとんでもないことである、というのがルイ16世の考えだった。また、もともと改革派の国王であるルイ16世には革命に対するある種の理解があり、革命を全否定することはできなかった。
では、王妃マリー・アントワネットはどうだったか?彼女は束縛を嫌悪する女性。なんであれ、他人から強制されることを極度に嫌う。そもそも、自分はフランス王妃。その自分が自由に行動できないなどということがあってはならなかった。また、ルイ16世とは違って、マリー・アントワネットにとっては、革命は絶対的悪。だから、ルイ16世が時々無気力、不決断に陥ったのに対して、アントワネットは常に断固としていたし、国王よりも「パリ脱出」を早く決断する。1790年暮れには「パリ脱出」を心に決め、フェルセンに頼んで逃走用の特別製馬車を発注していた。
国王が逃亡計画に賛成するようになるのは1791年春。国会では憲法制定作業が着々と進められていた。時間とともに国会の重要性が増してゆき、それに反比例して国王の権限が縮小されていった。もはや、ルイ16世が自分のペースで改革を推し進めることなど到底不可能になっていた。どこか安全な地方都市にいったん身を落ち着けて、そこで態勢を立て直すしかないように思われた。そして、ルイ16世が逃亡計画に賛成する最後の決め手になったのが「聖職者民事基本法」(教会を国家管理下に置く)。1790年7月12日、国会で可決され、8月24日、ルイ16世はこれを認可した。さらに11月27日、聖職者にこの「聖職者民事基本法」への宣誓義務を課す法令が可決され、12月26日、ルイ16世は「死ぬ思いで」これを認可した。これによって宗教界は、革命に忠誠を誓った「宣誓派」とそれを拒否した「非宣誓派」に分裂。ローマ教皇は1791年3月10日、「聖職者民事基本法」を弾劾した。とりわけ信仰心の篤かったルイ16世には、これがパリ脱出決意の最後の決め手になった。彼にとって、ローマ教皇に否認された「宣誓派」は異端であり、このままでは宗教的救いを得られない人々が大勢出てしまう。一刻も早くフランスを立て直して人々を救済しなければならない、とルイ16世は考えた。
1790年7月14日 「連盟祭」 第1回パリ祭
「教会財産の国有化」の風刺画
廃業した僧侶の引っ越し
1790年2月4日 国会で演説するルイ16世
1790年2月13日の聖職者の終身誓約と修道会の廃止をうけて自由を喜ぶ修道士
「聖職者民事基本法」に宣誓させられる司祭
「宣誓」僧侶
「非宣誓」僧侶
「聖職者民事基本法」を断罪するローマ教皇の教書を尻で拭くフランス市民 右上は、ピオ6世の人形を燃やす民衆
ポンペオ・バトーニ「ピウス6世」アイルランド国立美術館
0コメント