「マリー・アントワネットとフランス」22  ルイ16世処刑

 1792年9月21日、立法議会は解散し、代わって国民公会が成立。ダントン、マラー、ロベスピエールら有力革命家がずらりと顔をそろえるこの国民公会は、フランス史上初めて普通選挙で選ばれた議会だった。9月21日の最初の会合で王政廃止が宣言される。ここに、千数百年続いた王政は正式に廃止され、フランスは共和国となった。廃位されたルイ16世は「ルイ・カペー」となる。もともと君主はファーストネームでしか呼ばれないが、ルイ16世も国王ではなくなったのだから、苗字をつけるのがよかろうということで「ルイ・カペー」と呼ばれることになったのである。

 当初「国民、国王、国法!」をスローガンとしていた革命の雰囲気は、今や大きく様変わりした。そのことを端的に示しているのが、正式に王位廃止宣言がなされた9月21日に、僧侶出身のグレゴワールという議員が国民公会で行った次の演説だ。

「国王というものは、道徳的には、自然界における怪物のごときものである。宮廷というものは、犯罪の工房、腐敗の温床、暴虐者の巣窟である。諸国王の歴史は、諸国民の殉教の物語である」

 この国民公会で、何度となく討論が行われた末に、ルイ16世を裁判にかけることが決定された。国王裁判の行方が決定されたのは、ジャコバン派のサン・ジュストによる11月13日の演説。

「いかなる幻想、いかなる慣習を身にまとっていようとも、王政はそれ自体が永遠の犯罪であり、この犯罪に対しては、人間は、立ち上がって武装する権利を持っている。・・・人は罪なくして国王たりえない。これは明々白々なことである。国王というものは、すべて反逆者であり、簒奪者である」

 さらにこの演説の1週間後、錠前師ガマンの告白によってテュイルリー宮殿の隠し戸棚から国王が反革命派と連絡を取り合っていたことを示す文書が発見される。国王の裁判は12月11日に開始された。ルイは自分は君主としての義務を果たしてきただけだと無罪を確信していたので、二度行われた喚問の際は堂々としていた。

 1793年1月15日に審理が終了し、票決に移った。有罪かどうかについては、反対票なしで「有罪」と決まった(棄権が37票)。どんな刑を科すべきかについては、「死刑」387票、「追放、幽閉等」334票であった。死刑票の中には、執行猶予付き賛成票が26票あった。「執行猶予付き」は事実上は死刑反対と同じだから、この分を引いて反対票に加えれば、361対360になり、実際にはわずか1票差で死刑に決まったのであった。

 ルイは、前年のクリスマスの頃に、すでに遺書を書いていた。息子には、けっして復讐を考えてはいけないと諭していた。マリー・アントワネットに対しても、彼女とフェルセンの関係を知りながらどこまでもやさしい夫であった。自分が死んだ後に妻が後悔の念にかられはしないかと心配してこんな言葉を残している。

「もし彼女が自分に何らかの落ち度があったと思うようなことがあれば、私が彼女に対して何の不満も抱いていないということを確信してもらいたい」

 1793年1月21日、ルイ16世は革命広場(現在のコンコルド広場)で処刑された。王権神授説にもとづく「国王主権」の原則を根底からくつがえし、新たに「国民主権」の原則を確立するためには、一人の生身の国王を物理的に生贄にする必要があった。新しい社会を確固としたものにするために、古い社会の死を具体的な形で目にする必要を人びとは感じたのであった。

「国王の威信などというものは取るに足らないもの、国王の首もほかの首と同じように落ちるもの、この生ける神が死んだところで天変地異が起こるわけでもないし、稲妻が走ったり、雷が鳴ったりするわけでもないということを、人びとに示してみせることがぜひとも必要だった。」(ミシュレ『フランス革命史』)

斬首後、革命派によって民衆に示されるルイ16世の首

ジャン・フランソワ・ガルネレ「タンプル塔のルイ16世」カルナヴァレ美術館

ジョゼフ・デュクルー「ルイ16世」カルナヴァレ美術館

「サン・ジュスト」 その美貌と冷厳な革命活動ゆえに「革命の大天使」の異名をとった

1792年12月26日 最後の証言に立つルイ16世

ジャン・ジャック・オエ「家族に別れを告げるルイ16世」カルナヴァレ美術館

チャールズ・ベナゼック「1793年1月21日 ルイ16世の処刑」ヴェルサイユ美術館

ギロチンで処刑される直前のルイ16世  左は知己である死刑執行人、シャルル=アンリ・サンソン(1798年)

民衆に示されるルイ16世の首

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