「マリー・アントワネットとフランス」20 1792年「8月10日」
ついに1792年8月10日、パリの民衆は連盟兵団とともにテュイルリー宮殿に攻め寄せ、守備についていたスイス人傭兵隊との銃撃戦の末に、宮殿を制圧した。この間、国王一家はどうしていたか?
前夜から宮殿内にいたセーヌ県の最高幹部レドレールは、ルイ16世に国会に避難するように勧告されていたが、マリー・アントワネットは「だって、兵力があるではありませんか」と言って、戦うことを望んだ。勝ち目はあったのか?たしかに大砲も何門かあったが、攻め手の兵力は守備側の十倍以上。当時砲兵中尉として地方の兵営に勤務していたナポレオンは、たまたま休暇でパリにあり、テュイルリー宮殿攻防戦の様子を観察していたが、彼の見解はこうだった。
「ルイ16世が馬に乗って闘いの現場に姿を現わしたならば、ルイ16世は勝利を手にしたであろう」
ナポレオンならば、攻め寄せる軍勢に躊躇なく大砲を打ち込んだことであろう。実際ナポレオンは、3年後の1795年10月5日、サントノレ通りにあるサン・ロック教会に立て籠もった王党派の反乱軍を砲弾を浴びせて鎮圧する。
ルイ16世はレドレールに「パリ中が攻めてくるのだから、勝ち目はない。国王の命も保証できない」と言われて、避難を受け入れるしかなかった。銃撃戦の間、国王一家は国会内に避難していた。ルイ16世は、文書でスイス傭兵部隊に戦闘中止命令を出す。これによって、宮殿守備隊の敗北が決まる。ついに国王と王妃の前でフランス王政は崩壊した。そして、この日傍観者に終始していた国会は、パリ民衆の勝利を確認して王権停止を宣言する。「8月10日」は革命の新しい段階、第二革命の幕開きとなった。
この日の夜、国会のすぐ隣にあったフイヤン修道院に連れて行かれた国王一家は、そこで三夜を過ごす。国会は、国民が望む政治体制をつくるために、新しい憲法を制定するための国会召集を決議。また8月13日には、国王一家をタンプル塔に投獄することを決定した。
タンプルは、中世に「国家の中の国家」と言われるほどに隆盛を誇ったタンプル騎士団(テンプル騎士団。「タンプル」はフランス語読み、「テンプル」は英語読み)の本拠だった場所。セーヌ川の北側、現在のパリ3区、マレ地区にあった広大な一画で、敷地内には、所長館であった豪勢な建物から普通の民家や物置のようなものまで、大小様々な建物がたくさんあった。国王一家の収容場所となったのは、その中のタンプル塔。敷地の西のはずれにあり、塔の壁の厚さは3メートル近く。そこが選ばれたのは、警備が容易だったからだ。タンプル塔は中世に建てられたものなので、古臭くて陰気な感じがするというのが全体的印象だった。マリー・アントワネットはかつてタンプル塔を訪れた時、義弟に「塔は気持ちが悪いから取り壊してほしい」と頼んだものだった。
1789年10月6日にヴェルサイユ宮殿を追われ、強制的にパリに移されて以来、国王一家は行動の自由を制限されてきたから、すでにある程度は囚われの身であった。それでも、住み心地はヴェルサイユ宮殿とは比べ物にならないほど悪いとはいえ、宮殿と名の付くところに住んでいた。テュイルリー庭園を散歩することができたし、パリの町中に出て観劇することもできた。そして何よりも、テュイルリー宮殿時代はマリー・アントワネットはフランス王妃だった。正式に王政廃止宣言が出るのは1792年9月21日だが、8月10日に王権停止が宣言されてからはルイ16世は事実上もはや国王ではなく、したがって、マリー・アントワネットももはや王妃ではなかった。
こうして、国王一家は名実ともに囚われの身となった。タンプルの管理はパリ市に委ねられていた。8月10日に傍観者に終始した国会は、この日の主役であったパリ市に国王一家の身柄を引き渡さざるを得なかったのである。パリ市から交替で派遣されてくる者たちが牢番役を務めた。彼らは24時間体制で囚人たちを監視し、部屋の扉も閉められなかった。
ジャン・デュプレイシー=ベルト「テュイルリー宮殿の襲撃」1792年8月10日 ヴェルサイユ宮殿 カルーゼル広場での戦闘
「テュイルリー宮殿襲撃の様子」フランス革命博物館 バスティーユ襲撃とは異なり、計画・準備された革命
「179年8月10日」宮殿前での戦闘の様子,
スイス傭兵隊の一斉射撃で白煙が上がる。手前に捕虜の虐殺も描かれている
18世紀のテュイルリー宮殿
アンリ=ポール・モット「テュイルリー宮殿でのスイスと反乱軍の戦闘」フランス国立図書館
フランソワ・ジェラール「国会になだれ込む民衆」ルーヴル美術館
議長席の後ろにある窓の奥が速記官用の部屋で、国王一家はここに押し込められた
1734年のタンプル塔
1785年のタンプル塔
アレクサンドル・クシャルスキ「マリー・アントワネット」1792年頃 ヴェルサイユ宮殿
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