「マリー・アントワネットとフランス」19 1792年6月20日

 ルイ16世は内務大臣ロランの必死の訴え賭けにも耳を貸さない。それどころか、3日後にはロラン大臣を罷免する旨の手紙を送りつける。ルイ16世もマリー・アントワネットも、自分たちの追い込まれている危機的状況を理解できず、王家が生き残る最後のチャンスを失なってしまった。6月20日、国王のあいつぐ拒否権の発動、ジロンド派大臣(ロラン)の罷免に怒った民衆が、槍や斧や棍棒で武装して議会に押し寄せ、そのあとテュイルリー宮殿に乱入した。群集は、国王の前を延々2時間にわたって示威行進した。彼らは、国王に拒否権を撤回するように求めていた。マリー・アントワネットは子どもたちや王妹エリザベートとともに、ふるえながら国王の寝室に逃げ込んだ。宮殿の扉がすさまじい勢いで叩き壊され、一瞬のうちに宮殿は群集によって占拠された。群集が立ち去ったのは、夜の10時になってからのことだった。国王は王妃、子どもたち、エリザベートと泣きながら抱き合った。この日の出来事をマリー・アントワネットはフェルセンに次のように書き送っている。

「私はまだ生きています。しかし、それは奇跡なのです。20日は、怖ろしい一日でした。人びとがもっとも恨みを抱いているのは、もはや私ではなく、私の夫が生きているということなのです。彼らはもうそのことを隠してはいません」

 しかし、こんな目に遭ってもルイ16世は拒否権を取り下げようとしなかった。事件を知ったラ・ファイエット将軍は、司令官を務めていた任地からパリに駆けつけ、7月14日に予定されている式典中に国王一家を軍隊を使って連れ出し、安全な地まで送り届けたい、と提案する。しかしこの申し出も、ラ・ファイエットを嫌っていたマリー・アントワネットは拒否。なぜ彼女は、ジロンド派の訴えも、ラ・ファイエットの提案も拒否したのか?そのヒントは、マリー・アントワネットの7月3日付フェルセン宛ての手紙にある。

「私たちの状況は恐ろしいものです。でも、あまり心配しないでください。私は勇気を感じますし、私の中の何かが『私たちはまもなく幸せになり、救われる』と語っています。これだけが私の支えです・・・。いつになったら、私たちはゆっくり逢えるのでしょうか?」

 その頃、フランス軍はオーストリア・プロイセン連合軍に一方的に負け続けていた。マリー・アントワネットは、外国軍がフランス軍を打ち破ってパリを制圧し、自分たちを解放してくれるものと信じていたのだろう。しかし、マリー・アントワネットの画策は、自らの状況を悪化させる。

 連合軍と戦っていたフランス軍の状況悪化に、ついに議会は「祖国の危機」を宣言。非常事態宣言の下で全国の国民衛兵の武装が命じられ、パリ市民1万5千人が兵役につく。さらに義勇兵の募集が始まり、第3回連盟祭(7月14日)のために全国から兵士が集まる。7月30日、マルセイユ連盟兵団600人がパリに到着。彼らは革命家を歌いながらパリの街を練り歩き、革命の高揚感をいやが上にもかき立てた。この歌こそ、やがてフランス国家となる「ラ・マルセイエーズ」である。

 一方、7月25日に出されたブラウンシュヴァイク公(オーストリア・プロイセン連合軍総司令官)の宣言の内容が7月末にパリに伝わる。この宣言書の狙いは、パリ進攻の前に軍事的脅しをかけてパリの人々を屈服させようというもの。これは、外国軍の進軍が遅いことに我慢しきれなくなったマリー・アントワネットがフェルセンを仲介にして君主たちに要請したものだったが、外国軍と宮廷が連絡を取り合っているという疑惑をさらに増大させ、王家の破滅を早めることになる。

「(フランス)王室にいささかとも危害をあたえるならば、パリ全市を軍事的処刑と完全な破壊とに委ねることにより、見せしめとなり永久に記念となるような復讐を行うだろう」

 この要求にフランス国民の怒りは爆発、愛国心が燃えさかる。そして、8月9日午後、テュイルリー宮殿襲撃の計画が立てられたのである。

1792年6月20日 威嚇的な民衆の脅威にさらされるマリー・アントワネット

1792年6月20日 テュイルリー宮殿に向かう民衆のデモ

1792年6月20日 テュイルリー宮殿に乱入した民衆 大砲も見える

1792年6月20日 テュイルリー宮殿に乱入した民衆と対峙するルイ16世 フリジア帽をかぶり国民の健康を祝ってワインを飲みほしたという

1792年6月20日 ルイ16世の風刺画「国民ばんざい」 大酒飲みで頭が弱いと揶揄 フリジア帽(自由の象徴)をかぶり、「国民ばんざい」と叫んで、民衆の持ってきたワインを瓶から飲むルイ16世

「ブラウンシュヴァイク公カール・ヴィルヘルム・フェルディナント」1795年頃

ストラスブール市長にラ・マルセイエーズを初披露するリール工兵 「祖国の危機」に応じてマルセイユから馳せ参じた志願兵部隊の中にいたルージェ・ド・リール工兵がストラスブール市長の求めに応じて糸版で作詞作曲した「ライン軍のための軍歌」はのちに「ラ・マルセイエーズ」としてフランス国家になった

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