「マリー・アントワネットとフランス」13 革命勃発

 マリー・アントワネットが初めてヴェルサイユ宮殿に入ったのは1770年5月16日。そして、強制的にヴェルサイユ宮殿を去ってパリに移住(テュイルリー宮殿)させられるのは1789年10月6日。14歳だったアントワネットは33歳になっていた。7月14日の「バスティーユ陥落」の報がヴェルサイユに届いたその日の夜から2か月半、なぜ彼女たちはヴェルサイユに留まっていたのか?アントワネットの側近中の側近ポリニャック夫人も、王弟アルトワ伯爵(後のシャルル10世)も亡命したではないか。

 バスティーユ陥落の翌日、ヴェルサイユ宮廷では対応が協議され、フランス北東部の都市メッスへの避難が検討される。しかし、ルイ16世もマリー・アントワネットもこれに反対。ルイ16世にとっては、国民を見捨てて逃げるなど、とんでもないこと。アントワネットも、自分はフランス王妃なのだから国王の傍に留まるべきだと考えていた。武力でパリを制圧すべきだという意見もあったが、ルイ16世はパリと和解する道を選ぶ。そして7月16日にパリ市庁舎を訪れることになる。アントワネットはこれに猛反対。パリに行ったりすれば夫はとても生きては帰れないだろうと思ったからだ。どうしても行くというなら自分も一緒に連れて行ってくれるよう懇願するが、残るようにと説得される。国王に不安がなかったわけではない。出かける前に自分に何かあった場合は弟のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)が摂政に就任する手配をした。

 アントワネットは、声明書を用意する。その内容は、自分たち一家の保護を国民議会に求めるもの。夫にもしものことがあった場合は国民議会の議場に出向いてそれを読み上げるつもりだった。

「皆様、わたくしは皆様の主君の妻と家族を皆様にゆだねるためにやってまいりました。天上において一つに結ばれましたものを地上においてばらばらにされることがないようにしてくださいませ」

 7月17日、ルイ16世がパリに出かけると、アントワネットは声明書朗読の練習をした。しかし、その声明文が国民議会で読み上げられることはなかった。ルイ16世はパリで大歓迎を受け、帽子に三色旗を着けて帰ってきた。青と赤はパリ市の紋章の色、城はブルボン家の色で、白を青と赤で挟む構図は王家とパリの和解を意味していた。これが、現在もフランス国旗になっている三色旗の誕生である。

 では、ヴェルサイユ宮殿での生活はどう変わったか?バスティーユ陥落を機に、貴族たちの亡命が続出してヴェルサイユ宮殿も寂しくなった。しかし、ひとまず事態は沈静化し、規模が縮小されたとはいえ、これまでどおりの宮廷儀式が執り行われていた。「起床の儀」も「就寝の儀」も。ルイ16世は大好きな狩猟をまた始めることができたし、マリー・アントワネットもプチ・トリアノンで「お百姓さんごっこ」を楽しめるようになった。

 8月4日、「封建的特権の廃止」が宣言される。旧体制は崩壊し、あらゆるフランス人が国民として一体化することになったのである。これは、バスティーユ陥落後、フランス各地で貴族領主の館が襲われ、土地台帳が燃やされる事件が頻発していたので、これを鎮める狙いもあった。改革はこれにとどまらない。このような旧体制の廃止を確認し、あわせて、新しい体制の原理を明らかにした宣言が、8月26日に議会で採択される。有名な「人権宣言」(正式には、「人間および市民の権利宣言」)だ。

第一条「人間は、生まれながらにして、自由であり、権利において平等である」

 この宣言は、社会の構成要素の基本を自由で平等な「個人」であると明記し、ここに身分制度は完全に破棄された。自由、所有、安全、圧政への抵抗という4つの自然権がうたわれ、国民主権、参政権、税負担の平等など近代社会一般の基本原理が明示されている。旧制度の下では認められなかった言論や思想の自由も承認された。

では、二つの宣言によって民衆の騒擾はおさまったのか?否である。1789年は豊作だったが、革命の混乱や大恐怖によって穀物流通が滞り、市場に穀物が出回っていなかったためである。そんなおりもおり、ヴェルサイユで民衆の感情を逆なでするような出来事が起きる。

ジャン・ポール・ローレンス「パリ市庁舎でバイイとラファイエットに迎えられるルイ16世」パリ市庁舎

1789年7月14日バスチーユ監獄襲撃

7月14日国王にパリの情勢を伝えるラ・ロシュフコー公

7月17日ルーヴル河岸を市庁舎へ向かう国王の行列

1789年7月17日 ルイ16世、パリ市庁舎を訪問

7月17日パリに到着した国王に、迎えたバイイが入市式の儀礼にのっとり「都市の鍵」を渡す

7月17日市庁舎を出るにあたって、三色の国民徽章のついた帽子を掲げるルイ16世

「大恐怖(グラン・プール)」)城館に火がつけられ、貴族は逃げ出した

「大恐怖(グラン・プール)」の拡がり

「1789年8月4日夜 国民議会」ヴィジーユ フランス革命博物館

「1789年8月4日と5日」 農民が、封建性の象徴である貴族の武具、僧侶の帽子などをたたきこわしている

「フランス人権宣言」

 「自由」が鉄鎖を断ち切り、「天使」はすべてを見通す真理の目を指している。「モーセの十戒」の石板を模した石板は、権利が神から与えられたことを象徴している。

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