「マリー・アントワネットとフランス」18 拒否権発動
1791年9月、新しい国家体制、立憲王政が成立。フランス史上初の憲法「1791年憲法」の制定である。ヴァレンヌから連れ戻されたばかりの頃は、国王の廃位まで問題にされていたが、事件後の混乱が収拾され、バルナ―ヴらの活躍もあってなんとか立憲王政が成立したのだ。その中身は国王にとってかなり有利なものだった。国王は不可侵の存在(政治的責任を問われない超法規的存在)とされ、拒否権(国会を通過した法令の発行を停止させる権限)が与えられていた。大臣、大使、将軍の任命権も国王に会った。戦争と平和の決定権は失われたが、その発議権は国王にあった(国王が開戦を国会に諮らない限りはフランスは戦争できない)。
このように、ルイ16世には立憲君主としての地位が保証され、王家には革命とさせるために共栄を図る道が開けたのだが、彼はどう受け止めたか?9月14日、ルイ16世は国会に出向き、憲法に対して忠誠を誓う演説を行い、拍手喝さいを受ける。マリー・アントワネットも憲法を受け入れるふりをしたが、本当のところは、彼女にとって憲法は「唾棄すべき作品」でしかなく、立憲王政もあくまで一時的なもの、いずれはくつがえして「本来の王政」に戻るまで暫時耐え忍ぶものでしかなかった。そのため、君主たちによる「軍事会議」を実現させるために画策していた。
憲法制定の大任を果たし、国民議会は解散。1791年10月1日、立法議会が発足し、翌年3月にジロンド派内閣が成立する。そしてジロンド派は開戦を主張した。革命のフランスと周囲の旧体制諸国との間には不倶戴天の敵対関係が生じていたので、以前から戦争が起こりそうな雲行きだった。開戦は革命を守りたい全国民の願いであった。では、発議権を有する国王はどうだったか?ルイ16世もマリー・アントワネットも戦争を望んでいた。戦争でフランスが負け、革命がつぶされることを見込んでいたからである。
1792年4月20日、ルイ16世が国会に開戦を提案。750人の議員のうち、開戦に反対したのはほんの10人ほど。まずオーストリアに宣戦布告。まもなく、プロイセンも対仏戦争に参入。翌年には、イギリス、オランダ、スペインも参戦する。フランス軍は士気は高かったが、オーストリア軍相手に緒戦は惨めな結果になる。装備もすぐれ、軍規軍律もしっかりしたオーストリア軍に対して、フランス軍は、銃どころか軍服・軍靴さえも行きわたらず組織ががたがただった。さらに作戦が相手にばれていた。マリー・アントワネットがベルギーにいるメルシーやフェルセンへの手紙で軍事機密をもらしていたからだ。王妃が軍事機密を流したという証拠は何ひとつなかったが、人びとはテュイルリー宮殿内部にこそ裏切者がいるということを本能的に感じ取った。
人々は、外国の軍隊に呼応する国内の反革命集団に対する警戒心を強め、革命闘争は熾烈化してゆく。立法議会は、戦時体制強化のため、5月下旬から6月初旬にかけて、新憲法に宣誓しない聖職者を国外追放にする法令と、全国から2万人の連名兵(国民衛兵)をパリに集めて駐屯させる法令を制定。しかし、ルイ16世は、この二つの議案に拒否権を発動した。国民の戦意に水を差す国王の拒否権発動に、人びとは憤慨。これ以上革命が急進化することを望まず、国王と手を組んで革命を落ち着かせたかったジロンド派は、危機感を感じる。6月、ジロンド派の内務大臣ロランは国王に長文の手紙を送り、自分たちと手を結ぶように必死に国王に呼びかける(この手紙を実際に書いたのはロラン夫人)。
「二つの重要な法令が制定されましたが、二つとも公共の安寧と国家の安泰に本質的に関わるものでございます。この二つの法令に対する認可が遅れていることが不信を生み出しているのです。もしこうした事態が長引けば、それは不満を呼び起こし、そして、私はこう申し上げなければならないのですが、現在のような昂奮した状況においては、どんな結論にたどり着くやもわからないのです。
もはや、尻込みしている時ではございません。時間を稼ぐ手段すらもございません。革命は人々の心の中にしっかりと根を下ろしております。今であればまだ避けることができる不孝を賢明にも予防しないならば、革命は血の代価をあがなって遂行され、それによって革命はさらに確固たるものになるでしょう・・・」
「二人は一人」1791年頃 フランス革命美術館 王家一家の逃亡劇が失敗に終わると、風刺画はいよいよ激しく、辛辣になっていった
ルイ16世の風刺画 マリー・アントワネットの尻に敷かれる
二つの顔を持つヤヌス神のような国王 左に向かって憲法を遵守しようと言い、右に向かって憲法を破棄しようと言う
バルナーヴの二面性 1789年には民衆の人、91年には宮廷の人とされている。足元の説明は「時に冷たく、時に熱い。ある時は白く、ある時は黒い。今は右だがかつては左。皆さん、こんにちは、そしてこんばんは」
ヨハン・ユリウス・ハインジウス「ロラン夫人」ベルサイユ宮殿
ジロンド派の黒幕的存在だったことからジロンド派の女王とも呼ばれた
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