「マリー・アントワネットとフランス」12 三部会開催と長男の死
「首飾り事件」(判決は1786年5月31日)はマリー・アントワネットにとって非常に辛い試練だったが、夫との絆を強める契機にもなった。二人は協力して問題に対処するようになる。マリー・アントワネットは「慎重さ」を学びとり、取り巻きとは距離を置き、国全体のことを考えるようになる。彼女も30歳を過ぎていた。
しかし、「首飾り事件」よりももっと深刻な事態がフランスを蝕んでいた。国家財政の破綻である。1781年の時点で、単年度赤字額は8000万リーヴル、国の借金額は2億1800万リーヴルだったが、その後さらに悪化。主な原因はアメリカ独立戦争の支援。1783年、パリ条約によってイギリスはアメリカの独立を承認したが、フランスは5年間で10億リーヴルもの大金をアメリカにつぎ込んだ。
ルイ16世は、この国家財政の危機を抜本的税制改革で乗り切ろうとした。当時のフランスでは、第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が人口に占める割合は2パーセントだったが、彼ら特権階級は領土の35パーセントを握り、しかも免税特権を有していた。ルイ16世は、この35パーセントの土地から上がる収益に第三身分と同率の税金をかけようとした。この税制改革にはパリ高等法院の反対が予想されたため、ルイは「名士会」を開いて有力者の賛同を得、高等法院の反対を封じ込めようとした。しかし、ルイの期待に反して「名士会」は税制改革に反対。貴族たちは、税制問題は「三部会」で討議されるべきと主張する。「三部会」は国民と国王の協議機関として1302年に設置されたものだが、その後、絶対王政が着々と整備されるにつれて、王権は国民と協議する必要がなくなるほどに強化されたので、1614年以来開かれていなかった。
ところで、国家の財政破綻が問題にされるようになって、マリー・アントワネットには変身の兆しが見えていた。経費節減を考えるようになったし、フランス全体のことを考えるようにもなった。一方、ルイ16世は、税制改革が名士会の賛同を得られなかったことで、大きな挫折感を感じた。頼りにできる大臣も失って途方に暮れていた。これ以降、ルイ16世は時々鬱状態に陥り、何の決定も下せなくなることがあった。そして、ルイが無気力状態に陥っている間は、マリー・アントワネットが政治に関与するようになっていく。彼女の最初の政治的関与は、1787年5月のロメニー・ド・ブリエンヌの財務監就任。しかし、ブリエンヌも状況を打開できない。更迭され、1788年8月26日、ネッケルが財務監に返り咲く。この人事を積極的に推進したのもマリー・アントワネットだった。ネッケルは「民主派」として知られていたので、やりすぎる恐れもあり、アントワネットもネッケルをコントロールする必要も感じていた。
「誰か、彼(ネッケル)にブレーキをかけられる人が必要です。私の上にいる方(ルイ16世)は今そうできる状態にありませんし、人が何と言おうと何が起ころうと、私は補佐役でしかありません。第一の地位にある方(ルイ16世)は、私を信頼してくれていますが、自分は補佐役でしかないのだということをしょっちゅう私は感じます。」
1788年12月27日、マリー・アントワネットは夫に招請されて初めて閣議に出席する。前王妃が摂政になった場合を別にすれば、フランス王妃が閣議に出席するのは前代未聞のことだった。
1789年5月5日、三部会が開催される。しかし、その頃のマリー・アントワネットの最大関心事は政治ではなかった。彼女の心を閉めていたのは長男のこと。数年前から健康を損ね、背骨が曲がり、背中にこぶができ、体がすっかりゆがんで歩けなくなっていた。この年に入ってから、病状はますます悪化していた。そして、6月3日、ついに死亡した。マリー・アントワネットはすでに2年前に生後11か月の次女を亡くしていたが、今回は7歳8カ月の王太子。次女の時に受けたダメージとは比較にならない。さらに彼女がショックを受けたのは、王太子の死亡にフランス人が大した関心を払わないことだった。
1789年5月5日 三部会
「アンシャンレジームの皮肉」
「ジャック・ネッケル」フランス国立図書館
アントワーヌ=フランソワ・カレ「ルイ16世」ヴェルサイユ宮殿美術館
アドルフ・ウルリッヒ・ヴェルトミューラー 「マリー・アントワネットと子どもたち」1785年 スウェーデン国立美術館
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