2021.09.08 00:12「マリア・テレジアとフランス」14 「外交革命」(14)「七年戦争」 「外交革命」=フランス・オーストリア同盟の実現にあたってポンパドゥール夫人の果たした役割の大きさは、カウニッツの夫人宛書簡(1756年6月9日)からもうかがえる。「このほど二国間でなされたことはすべて、公爵夫人、これは完全にあなたのご熱意とご叡智の賜物です。わたしはそれを感じて...
2021.09.06 23:32「マリア・テレジアとフランス」13 「外交革命」(13)フランスのメリット フランス・オーストリア同盟の話を最初に持ち出したのはオーストリア。プロイセンに奪われたシュレージエンを取り戻すため、強国フランスに接近したのだ。ではフランスにとって、この同盟はどんなメリットがあったのか?ポンパドゥール夫人のベルヴュー城館での会見についてベルニスはこう書いている...
2021.09.06 02:10「マリア・テレジアとフランス」12 「外交革命」(12)オーストリアとフランスの接近 パリ駐在オーストリア大使はシュタレムベルク伯爵に代わったが、カウニッツはパリを去るとき、のちのちまでかわらない友情をポンパドゥール夫人に約束していった。カウニッツは夫人から、文通の許しと、そして自分の後継者シュタレムベルクのために特に目をかけてくれるという約束を、たやすくとりつ...
2021.09.05 01:53「マリア・テレジアとフランス」11 「外交革命」(11)ポンパドゥール夫人 カウニッツがフランス大使としてパリに赴いたのは1750年10月のこと。この年、ポンパドゥール夫人は健康を害したため1745年以来続いた愛妾の座から降ろされていた。しかし、国王ルイ15世に対する影響力が失われたわけではない。賢い彼女は、国王の最良の相談役であり、友人であろうと決意...
2021.09.03 22:53「マリア・テレジアとフランス」10 「外交革命」(10)カウニッツ伯爵 カウニッツは言った。「シュレージエンを失った痛みは忘れがたく、プロイセン王はいとも高貴なるご宗家(注:ハプスブルク家)の最も危険な敵であり不倶戴天の敵とみなさざるを得ない。従って我々としても、いかにすれば王の敵対行為に対抗し安全を確保できるかということばかりではなく、いかにすれ...
2021.08.29 22:41「マリア・テレジアとフランス」9 「外交革命」(9)ハンガリー 四面楚歌の状況をマリア・テレジアはどう打開したか?なんとハンガリーに乗り込んでそこの貴族たちに援助を求めようとしたのだ。それは常識から考えれば狂気の沙汰だった。ハンガリー王国(かつての広大なハンガリー王国は三分され、北部、西部が1526年からハプスブルク領になっていた)では、ハ...
2021.08.29 01:07「マリア・テレジアとフランス」8 「外交革命」(8)「オーストリア継承戦争」②敵対国フランスと同盟国イギリス マリア・テレジアがハプスブルクの家督をつぎ、オーストリア継承戦争が始まった時の状況を彼女自身こう語っている。「金も、信用も、軍隊も、自らの経験も、知識もなく、その上さらに助言するものもいない・・・私はまっ裸で玉座についたのです。」 歴史に名を残した人物で、最初から恵まれた環境の...
2021.08.27 23:41「マリア・テレジアとフランス」7 「外交革命」(7)マリア・テレジアVSフリードリヒ2世① 青天の霹靂とは、まさにこのことを言うのだろう。1740年12月16日、皇帝カール6世が他界してからわずか2カ月後のこと、何の前触れも、予告もなしに、3万もの精鋭部隊をフリードリヒ2世が直々に率いて、突如としてシュレージエン(石炭や鉄鉱石が豊富なうえ、肥沃な農業地帯で、オーストリ...
2021.08.27 01:13「マリア・テレジアとフランス」6 「外交革命」(6)オーストリア継承戦争 スペイン王カルロス2世は子がなく、スペイン・ハプスブルク家は途絶え、スペイン継承戦争の結果、スペイン・ブルボン家がスタートした。オーストリア・ハプスブルク家のカール6世も、子はいたが嫡男に恵まれなかった。長男は誕生したが、わずか半年で息をひきとる。その後生まれたのは長女マリア・...
2021.08.25 23:56「マリア・テレジアとフランス」5 「外交革命」(5)フランスVSハプスブルク⑤スペイン継承戦争 ウィーン市街を見下ろす小高い地にある広大な庭園をもった壮麗なバロック建築「ベルヴェデーレ宮殿」(Belvedereとは「美しい眺め」という意味。1723年完成)。上宮と下宮からなるが、このベルヴェデーレ宮殿をたてさせたのはプリンツ・オイゲン(オイゲン公)。神聖ローマ帝国=ハプス...
2021.08.25 01:33「マリア・テレジアとフランス」4 「外交革命」(4)フランスVSハプスブルク④プファルツ継承戦争 第二次ウィーン包囲(1683年)でオスマン帝国軍を撃退した後、ハプスブルク君主国は16年にわたって対オスマン戦争を戦う。1687年にはブダ、88年にはベオグラードを制圧。これを受けてハンガリーは、ハプスブルク家に世襲王位継承権を認めた(1687年)。しかし、バルカン半島における...
2021.08.24 00:34「マリア・テレジアとフランス」3 「外交革命」(3)フランスVSハプスブルク③ルイ14世 ルイ14世は、1643年に5歳で王位につき、宰相マザランの死後、すなわち1661年以後親政を行う。王権の絶対化、植民地の開発、重商主義に基づく貿易、産業の発展に努め、また対外的にも、1667年からは領土拡大を目指す侵略戦争を繰り返すことになる。そしてその対外政策の基軸にあったの...