「マリア・テレジアとフランス」8 「外交革命」(8)「オーストリア継承戦争」②敵対国フランスと同盟国イギリス

 マリア・テレジアがハプスブルクの家督をつぎ、オーストリア継承戦争が始まった時の状況を彼女自身こう語っている。

「金も、信用も、軍隊も、自らの経験も、知識もなく、その上さらに助言するものもいない・・・私はまっ裸で玉座についたのです。」

 歴史に名を残した人物で、最初から恵まれた環境の下で権力の頂点に立ったものなど知らない。ユリウス・カエサルしかり。エリザベス1世しかり。ナポレオンしかり。いずれも、あきらめることを知らず、己を信じ、状況を冷徹に見極め、絶望的とも思える状況を突破していった。

マリア・テレジアも当初はウィーン駐在各国大使たちが「大公女は何も知らない。無邪気な少女にすぎない。」と本国に書き送った存在にすぎなかった。この時マリア・テレジア23歳。父カール6世は女婿フランツに国家の政治を委任するつもりだったため、彼女には政治、統治について何も伝授しなかった。しかも3人の幼子をかかえ、4人目を妊娠中。金もない。1683年の第二次ウィーン包囲以降も継続されたオスマン・トルコとの戦いで国庫は空になっていた。軍隊は、ドイツ人、イタリア人、チェコ人などの諸民族からなる混成部隊の上、彼らを統率する優れた将軍を欠いていた。国民の中から若く力強い兵士を選抜し、彼らを鍛え上げて精強部隊を養成しているプロイセンとはまるで異なっていた。さらに、先年の対オスマン戦争以来、軍の主力はハンガリーに駐留していたため、ハプスブルク政府の対応は後手に回った。

 プロイセンによるシュレージエン侵攻によって始まったオーストリア継承戦争は、当初、国際世論はカール6世の跡を継いだマリア・テレジアに同情的だった。フランスですら動かなかった(それはフリードリヒにとって致命的な誤算になるところだった)。しかし、すぐに潮目は変わる。理由は二つ。

 第一は、プロイセンの軍事的成功。プロイセン軍はわずか2カ月でシュレージエンの大部分を手中におさめ(当時、全オーストリア軍はシュレージエンから撤兵していた)、翌1741年1月3日にフリードリヒは州都ブレスラウに無血入城した。4月のモルヴィッツ会戦では一時は危機に陥ったものの、最終的には勝利をおさめた。

 第二は、プロパガンダ戦の勝利。プロイセン軍はただ軍事侵攻しただけでなく、プロパガンダ文書を次々と配布して世論を味方につけた。モルヴィッツ会戦では、死傷者の数はプロイセン軍がやや多く、フリードリヒは負けたと思って戦場から離脱したほどだったが、プロイセンの勝利と喧伝された。プロイセン軍が行く先々で解放者と見なされ、歓喜の声で迎えられたのもプロパガンダの成果だった。

 この新たな潮目にのって、バイエルンが動く。そもそも、カール6世が急逝して真っ先に(プロイセンより早く)開戦にふみきろうとしたのはバイエルンだった。しかし、頼みのフランスが支援要請に応じなかったため、ハプスブルク君主国に国力・軍事力とも大きく劣るバイエルンは開戦を躊躇したのだった。しかし、プロイセンとの戦いに「敗北」したオーストリアの窮状をみたバイエルンは、1347年を最後に遠ざかっていた進呈ローマ帝国皇帝位を奪還する好機とみて、フランスと同盟して対オーストリア戦争に参加。1742年1月24日の選帝侯会議で、ヴィッテルスバッハ家のカール・アルプレヒトは皇帝(カール7世)に選出され、2月12日に戴冠した。ハプスブルク家以外の皇帝は実に300年ぶりだった。

 帝位を奪われたオーストリアの主敵はもはや、バイエルンとその背後にいるフランスであり、シュレージエンをめぐるプロイセンとの戦いは二の次となる。戦線はオーストリア、チェコ、ベルギー、イタリアの四方面に分散拡大し、ハプスブルク君主国は国家解体の危機に直面。上オーストリアとボヘミアは占領され、マリア・テレジアはウィーンからの避難を余儀なくされる。この苦境を見て、長年の同盟国であるイギリスも軍事支援を手控え(プロイセンと講和しないかぎり、資金援助にとどめて参戦は見送ると通告)、ハプスブルク君主国は孤立無援の状況に陥った。

ヴィルヘルム・カンプハウゼン「1741年、シュレージエンで臣従儀礼を行うフリードリヒ2世」

プロイセンの領土

アントワーヌ・ペヌー「フリードリヒ2世」

ゲオルク・デスマレー工房「神聖ローマ皇帝カール7世」ニュンフェンブルク城

リオタール「マリア・テレジア 1743~45」マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館 アントウェルペン

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