「マリア・テレジアとフランス」10 「外交革命」(10)カウニッツ伯爵
カウニッツは言った。
「シュレージエンを失った痛みは忘れがたく、プロイセン王はいとも高貴なるご宗家(注:ハプスブルク家)の最も危険な敵であり不倶戴天の敵とみなさざるを得ない。従って我々としても、いかにすれば王の敵対行為に対抗し安全を確保できるかということばかりではなく、いかにすれば彼を弱体化し、彼の優性ぶりに牽制を加え、制限し、失われたものを取り返すことができるかを、慎重なうえにも慎重に検討しなくてはならない」
そしてこの目的を達成するための手段を論じた。これまでの同盟国イギリスとオランダには我々の目的を達成する能力も手段も欠けている、この大きな最終目標に到達するためにはフランスとの同盟の他には道がない、と。女帝を除く誰もが耳を疑った。フランスはハプスブルク家の300年来の宿敵。そんな国と同盟を結ぶだって?そんな馬鹿なことが、と。しかし周囲の驚きをしり目に、カウニッツは静かに語り続ける。
「とても実現しそうにない、という理由だけで実行されないものが多数ある。だが実行されないという理由だけで困難とされるものの方が、はるかに多い。」
けだし名言である。マリア・テレジアは、カウニッツの提案を受け入れ、同盟国の相手を長年の友好国イギリスから300年来の宿敵フランスに転換するという、コペルニクス的転換を決定した。これは世界史上「外交革命」と呼ばれる。しかし、実際にオーストリア=フランス同盟が調印されるのはこの閣議決定の7年後。その7年は、マリア・テレジアにとって、またカウニッツにとって苦難続きの歳月だった。
マリア・テレジアの全権を帯びてカウニッツは大使としてヴェルサイユに乗り込む。カウニッツ大使が最も重要な基本方針として公式に訓令されたのは、次のこと。
「海上強国(注:もちろんイギリスのこと)を刺激することなく、またフランスからは恭順と解釈されることのないような形で、フランス宮廷に女帝の平和を愛する気持ちを確信させること、そして彼女がヨーロッパの平和を維持し、普遍的な福祉を促進するために、フランスと継続的に誠実な友好関係を結ぶことを心から願っている旨を確信させること、以上のことに留意すべし」
非公式=ストレートにいえば、イギリスに知られないように極秘裏に、フランスをプロイセンから引き離せ、ということだ。これは、とてつもなく困難な任務だ。カウニッツは軽く揺れやすい小舟を一方の側に転覆することのないよう、巧みに安全に操らなくてはいけない。絶対に避けなければならないのは、現在の同盟国イギリスを失い、かつフランスとも同盟を結べない事態だ。
フランスに乗り込んだカウニッツは、ルイ15世と外相から、極めて丁重に、頗る愛想のよい歓迎を受けた。しかし間違えてはいけない。フランス人は、社交となると親切の限りを尽くすが、仕事となると話は別。雰囲気はがらりと変わり、疑い深く、冷淡になる。カウニッツは極めて有能な政治家であり外交官。眼に見えるような成果を早急に期待したりすることはなかった。
彼は絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿で仕事をするにはまさにうってつけだった。外交官としての豊かな経験(トリノやネーデルラント)と巧みな人物の操縦法、古典から現代に通じた多彩な教養、フランス文化への愛好、人を魅了する社交術、才気煥発な話術。彼が話すフランス語は、生粋のフランス人のように流暢で洗練されていた。しかし、ルイ15世も外務大臣フルーリ枢機卿も300年来の宿敵オーストリアとの同盟など、一顧だにする価値のないことと考えている。
それにしても一体突破口はどこにあるか。ルイ15世に極めて近く、万能の王に対してさえ発言力のある人物で、しかもプロイセン王に反感を抱いている人物。その条件にぴったり当てはまる人物が存在した。ルイ15世の寵姫ポンパドール夫人だ。
ブーシェ「ポンパドゥール夫人」1758年 スコットランド国立美術館
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール「ルイ15世」1748年 ルーヴル美術館
マルティン・ファン・マイテンス「ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ」1750年頃 アーヘン市庁舎
ジャン=エティエンヌ・リオタール「ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ」1762年
ジャン・エティエンヌ・リオタール「マリア・テレジア」 1747年
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