「マリア・テレジアとフランス」5 「外交革命」(5)フランスVSハプスブルク⑤スペイン継承戦争
ウィーン市街を見下ろす小高い地にある広大な庭園をもった壮麗なバロック建築「ベルヴェデーレ宮殿」(Belvedereとは「美しい眺め」という意味。1723年完成)。上宮と下宮からなるが、このベルヴェデーレ宮殿をたてさせたのはプリンツ・オイゲン(オイゲン公)。神聖ローマ帝国=ハプスブルク家(レオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世)に仕えた軍人で、対オスマン戦争、スペイン継承戦争などで活躍し、後のオーストリア=ハプスブルク帝国の基礎を軍事面の成功によって築いた人物として評価され、フランス皇帝ナポレオン1世も古今東西の名将七人の中の一人に数えている。オイゲン公が頭角を現すのは、「第二次ウィーン包囲」に端を発する大トルコ戦争。1697年の「センタの戦い」では5万の兵で8万のオスマン帝国軍と対峙、ヨーロッパ側死者429名に対しオスマン側死者3万という大勝利を挙げ、一躍ヨーロッパ世界における英雄の位置へと躍り出ることになった。
対トルコ戦争だけではなかった。1701年から始まったスペイン継承戦争では最初イタリア方面司令官、後に軍権を掌握して軍事と軍政両方のトップとなり、対仏戦争を指揮。そして、イタリアをフランスから奪取。さらにネーデルラント方面へ転戦しネーデルラントでのフランスの支配権を喪失させた。このようにオイゲン公は対仏戦争でオーストリアの領土拡大に貢献し、ルイ14世統治下のフランスに大打撃を与えた。しかし、スペインの王冠はハプスブルク家ではなく、フランス・ブルボン家に帰すことになってしまう、国王カルロス2世の遺言にもとづいて。なぜ彼はそのような遺言を残したのか?
1665年以来のスペイン王カルロス2世には、子がなく病弱だった。そのため諸国は、カルロス死後のスペインの遺産について、はやくからそれぞれの野心を抱いていた。まずルイ14世はスペインの合併を(ルイの妃はカルロス2世の異母姉マリー・テレーズ)、また神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、かつてスペインとオーストリアに君臨したカール5世のハプスブルク帝国の復活をめざした(レオポルトの最初の皇后はカルロス2世の同母姉マルガリータ・テレサ)。そしてイギリスは、スペインの海外植民地を手に入れようと図った。
このような思わくの渦の中で、諸国はひそかに二回にわたってスペイン分割の協約を結ぶ。しかし、この分割の密約は、スペイン王に知られる。死の近いカルロスも、さすがに激しい怒りをこめてスペインの不分割を告げた。そして1700年、この領土不分割を条件に、ルイ14世の孫アンジュ―公を王位継承者に指名したのである。この遺言後まもなくカルロス2世は死去し、アンジュ―公がスペイン国王フェリペ5世となった。しかし、フランスによるスペイン領アメリカ植民地貿易独占を恐れたイギリスは,オランダおよび継承権をもつオーストリアと同盟しフランスに宣戦、スペイン継承戦争(1701年~14年)が始まった。
この戦争中の1705年にレオポルト1世が亡くなり、長男ヨーゼフ1世が皇帝となる。スペインにあってフランス軍と戦っていたのは皇帝の実弟カール。戦況は彼にとって有利に展開する。このままいけばカールは夢にまでみたスペインの王冠を手中にできはずだった。しかし、その時予期せざることが起きる。ヨーゼフ1世が急逝(原因は天然痘)し、カールが皇帝位を受け継いだ。こうなると、カールはスペインとオーストリアに君臨し、かつてのハプスブルク帝国を再現することになる。これをきらったのが同盟国イギリス。大陸に力の均衡を求めるイギリスは、フランスの強大化もハプスブルク支配の復活も望まなかった。こうして、戦いを続ける意味を失ったイギリスが和平にふみきることで、この長い戦いは終わったのである。
スペイン継承戦争は、表向きは王位継承の戦いであったが、実態は世界支配をめざすイギリス帝国があやつった戦いだった。この結果、明らかにルイ14世の大陸制圧という盟主政策は敗れ去った。ヨーロッパ政局は、フランス優位の時代からイギリスの操る力の均衡時代へと変わったのである。それは、いずれフランスのハプスブルク敵視政策をも転換させることになる。
「プリンツ・オイゲン騎馬像」ホーフブルク宮 新王宮前ヘルデンプラッツ
ベルヴェデーレ宮殿 上宮
ベルヴェデーレ宮殿 下宮
ジャコブ・シューペン「プリンツ・オイゲン公」アムステルダム国立美術館
フアン・カレーニョ・デ・ミランダ「スペイン国王カルロス2世」ローラウ城
ジャン・ランク「フェリペ5世」プラド美術館 スペインブルボン家最初の王 ルイ14世の孫
リゴー「ルイ14世」ルーヴル美術館
ジョン・クロスターマン工房「アン女王」ナショナル・ポートレート・ギャラリー
最後のイングランド王国・スコットランド王国君主(在位:1702年ー1707年)で、最初のグレートブリテン王国君主(在位:1707年ー1714年)
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