「マリア・テレジアとフランス」3 「外交革命」(3)フランスVSハプスブルク③ルイ14世
ルイ14世は、1643年に5歳で王位につき、宰相マザランの死後、すなわち1661年以後親政を行う。王権の絶対化、植民地の開発、重商主義に基づく貿易、産業の発展に努め、また対外的にも、1667年からは領土拡大を目指す侵略戦争を繰り返すことになる。そしてその対外政策の基軸にあったのは、ハプスブルク家の弱体化だった。この点でフランスとオスマン帝国の利害は共通していた。しかし、オーストリア包囲網をつくるといっても、ハプスブルク家はすでにヨーロッパ諸国にとって、カール5世時代ほど危険な存在ではなくなっていた。したがってルイ14世の領土的野心を満足させるために、東方でオスマン軍がオーストリアを悩ませていればそれでよかった。このことは第二次ウィーン包囲時の対応に見てとれる。
オスマンの脅威がウィーンに迫る中、ウィーン防衛のためにヨーロッパ各地から寄せられた援助金の中で群を抜いた金額をよこしてきたのは、ローマ教皇インノケンティウス11世(在位:1676―89)。さらに教皇は、カトリック、プロテスタントを問わずヨーロッパの名だたる王侯、各都市に呼びかけオスマン帝国に対する「神聖同盟」の結成を呼びかけた。それまでの「神聖同盟」というと、ただ単に教皇が同盟に名を連ねているからそう呼ばれるだけで、およそ「神聖」とは程遠いものが多かった。教皇がヨーロッパの政治情勢の中で己の発言力を高めるために宗教的権威を利用するという、教皇自身の私利私欲のための同盟がほとんどだった。しかし今回は違った。異教徒オスマン帝国に対するキリスト教世界の、正真正銘の「神聖同盟」であった。少なくとも教皇にとっては、異教徒に対する徹頭徹尾純粋な宗教統一戦線だった。
教皇はヨーロッパ各国の宮廷に教皇特使を派遣し、同盟参加を強く迫った。さらに皇帝レオポルト1世とポーランド王ヤン・ソビエスキの間を仲介し、攻守同盟を締結させた。教皇は次の標的をロシア皇帝に絞る。そし、神聖同盟成立のために、なんとロシア皇帝が「ツァーリ」と名乗ることを容認したのである。なぜ、それが「大事件」だったのか?
「ツァーリ」は「カイザー」(ドイツ語)同様、古代ローマ帝国を事実上開基したカエサルに由来する、古代ローマ帝国とのつながりを示す呼称なのだ。だから神聖ローマ帝国や東ローマ帝国の首長は「皇帝」なのである。では、ロシアの首長がなぜ「ツァーリ」(皇帝)と名乗るのか?モスクワ大公イワン3世(在位1462年―1505年)は、1453年に滅んだ東ローマ帝国の最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ゾイ(ロシア語名ソフィア)と再婚。そこで、東ローマ帝国との連続性を示すためにツァーリと自称。そして孫のイワン4世(雷帝)になると、史上初めてツァーリとして戴冠したのである。つまり、「ツァーリ」を名乗ったのは、自らギリシャ正教(東方教会)の保護者として、カエサルとのつながりを主張したのである。
ところがギリシャ正教は、ローマ教皇の首位性を決して認めようとしない。それどころかローマ・カトリックとギリシャ正教は、1054年、互いに破門しあっている。ローマ教皇にしてみれば、そんなギリシャ正教の保護者が皇帝と名乗ることは、到底許しがたいことになる。だから、インノケンティウス11世が、神聖同盟成立のためにとはいえ、ロシアの首長が「ツァーリ」を名乗ることを容認したことは人々を驚愕させたのだ。
ここまで必死だったインノケンティウスも、フランス王ルイ14世を説き伏せることはできなかった。フランスは伝統的に「ガリカニズム」(フランス教会独立主義。フランスの国益とローマ・カトリック教会の利害が衝突した時、フランスの聖職者はフランスの国益に従うべしという主張)を唱えている。ルイ14世は「第二次ウィーン包囲」の前年である1682年、フランスの聖職者総会を開催し、ガリカニズム宣言を採択させている。これによりルイ14世は、俗事における国王の、教会からの独立を主張した。ルイにとっては、オスマン帝国のウィーン包囲の際にあくまでも中立を堅持し、決してローマ教皇の唱える神聖同盟に加盟しないことこそが、フランスの国益にかなうことであったのだ。
ヤン・マティコ「教皇の使者に勝利の知らせを渡すソビエスキ」ヴァチカン美術館ソビエスキの間
イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル「キリスト教擁護者としてのソビエスキ」ワルシャワ国立美術館
1683年ウィーン鳥瞰図
フラン・ゲッフェルス「ウィーン包囲」ウィーン・ミュージアム・カールスプラッツ
ベンジャミン・フォン・ブロック「レオポルト1世」ウィーン美術史美術館
ジェイコブ・フェルディナンド・フート「インノケンティウス11世」
ピエール・ミニャール「アウグスブルク同盟戦争の頃のルイ14世」ヴェルサイユ宮殿
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