「マリア・テレジアとフランス」9 「外交革命」(9)ハンガリー
四面楚歌の状況をマリア・テレジアはどう打開したか?なんとハンガリーに乗り込んでそこの貴族たちに援助を求めようとしたのだ。それは常識から考えれば狂気の沙汰だった。ハンガリー王国(かつての広大なハンガリー王国は三分され、北部、西部が1526年からハプスブルク領になっていた)では、ハプスブルクの統治を嫌う風潮が絶えたことがなかった。また逆にオーストリア人のハンガリー人に対する不信の念も強い。ウィーン人にとって、彼らはハプスブルクと戦うためにオスマン帝国とでも手を組むような、これまで幾度となく惨禍を蒙ってきた憎い奴らだった。
しかし、マリア・テレジアはその冷徹な眼で見抜いた。ハプスブルクが生き残る道は彼らに るしかないことを。身重の体で日々乗馬の練習に打ち込む。騎馬民族ハンガリー人の気持ちをつかむためだ。そして、ハンガリーの首都プレスブルク(現在のブラティスラバ)に乗り込む。ハンガリー女王戴冠式をすませたうえで、ハンガリー議会に臨む。オーストリア人に根深い不信の念を抱く議会は、容易なことでは女王の要請に応じようとしない。何度も話し合いが重ねられ、交渉が続けられた。そして5カ月後、ついに女王の誠意が通じる。幼子を抱きながら「この子を抱いた私を助けられるのはあなたたちだけなのです」と訴える女王に、彼らは答えた。「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と。こうしてハンガリー議会は10万人の軍隊と多額の軍資金の提供を約束。これによって弛緩していたオーストリア軍に核ができ、それを中心として全体の統一が生まれた。オーストリアにも、ようやくプロイセン軍と対等に渡り合える態勢が整ったのである。
オーストリア継承戦争(1740年~48年)の間に、マリア・テレジアはハンガリー女王(1741年)だけでなく、ボヘミア女王(1743年)への戴冠も行った。また皇帝カール7世が亡くなった1745年には、彼女の夫フランツ・シュテファンがフランツ1世として神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた。皇帝の権限は事実上マリア・テレジアが行使したため、一般に「女帝」マリア・テレジアといわれるが、公式には彼女は女帝(Kaiserin)ではなく、皇帝妃であった。
しかし、オーストリア継承戦争が終わっても、プロイセンが奪ったシュレージエンは、ついにハプスブルク家には戻らなかった(1748年「アーヘンの和」)。マリア・テレジアはこのことを片時も忘れなかった。フリードリヒ2世を「シュレージエン泥棒」と呼んで憎悪し、いかにすればあの商工業の発達した領地を取り戻せるかと、日夜その方策を探った。たどり着いた結論は、プロイセンに対抗できる強力な軍隊の養成、そのための国家財政の再建、そのための中央集権制度の確立。優れた助言者が登用された。因縁のシュレージエン出身の下級貴族ハウクヴィッツ伯爵。1748年以降のオーストリアにおける内政の大改造は、その大半がハウクヴィッツの発想に基づくものといっていい。彼のプランの骨子はこうだ。これまで各地方の貴族や領主たちが、皇帝の意志を顧みず、勝手放題に支配していたのを、国家が全権限を掌握し、君主の決定がそのまま国家全域に伝達されるような体制に変革する。つまり、前近代的な封建制度を中央集権体制に改めるということ。そのためにウィーンに中央執行機関を設置し、国家全体の内政、税制を掌握して、そこから派遣された官吏が各州の事務を取り扱う。こういう内容だった。
アリア・テレジアはハウクヴィッツの具申した改革案に準拠しながら改革に着手。その内政・税制改革によってオーストリアは前代に比して3~4倍の増収。その大半が新設軍隊の養成に宛てられた。こうして、アーヘンの和から8年たった1756年には、女帝は少なくとも軍隊に関する限り、かなり自信をもってプロイセンに臨める態勢を築きあげていたのである。
不倶戴天の敵プロイセンには立ち向かうには、内政改革、軍制改革だけでは不十分。一緒になってプロイセンを追い詰める同盟国が不可欠である。1749年3月7日、今後のオーストリアがとるべき外交政策について秘密会議がもたれた。その席で、その場にいた誰もが(ただし、マリア・テレジアを除いて)わが耳を疑うような提案を行った男がいた。ヴェンツェル・フォン・カウニッツ伯爵。彼は言う。
「シュレージエンを奪回する唯一の方法は、同盟関係をイギリスからフランスに転換することである。」
マリア・テレジアに忠誠を誓うハンガリー貴族
ハンガリー女王としてのマリア・テレジア
「マリア・テレジア騎馬像」ブラチスラバ
ハンガリー王の王冠「聖イシュトヴァーンの王冠」
マルティン・ファン・マイテンス「フランツ1世シュテファン」ウィーン美術史美術館
フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ハウクヴィッツ
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