「マリア・テレジアとフランス」7 「外交革命」(7)マリア・テレジアVSフリードリヒ2世①
青天の霹靂とは、まさにこのことを言うのだろう。1740年12月16日、皇帝カール6世が他界してからわずか2カ月後のこと、何の前触れも、予告もなしに、3万もの精鋭部隊をフリードリヒ2世が直々に率いて、突如としてシュレージエン(石炭や鉄鉱石が豊富なうえ、肥沃な農業地帯で、オーストリア帝国の中で最も商工業が盛んな州)に侵入したのだ。人びとが仰天した理由はいくつもある。
フリードリヒ2世は、皇帝の逝去にあたって、オーストリアにお悔やみを書き送った唯一の君主だった。マリア・テレジアの夫フランツにぬけぬけとこう書いている。
「私があなたに抱いている経緯と友情は、よくご存じのとおりです。どうか私をあなたの親しい友人とお考え下さい。」
そもそもフリードリヒにとって前帝カール6世は命の恩人だった。プロイセンの前王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、きわめて極めて軍人肌の強い人物(「軍人王」と呼ばれた)で、息子フリードリヒを勇猛な武将に鍛え上げるために苛酷な訓練を強いた。それを堪えがたく思った王子は、友人カッテとともに国外逃亡を図る。しかし計画は事前に発覚し、カッテは王子の眼前で処刑される。フリードリヒも処刑されようとしたが、カール6世がその愚挙を諫めた。神聖ローマ帝国皇帝の意見には抗いがたいと、厳重処罰とするだけですまされた。また、プロイセン王国の誕生自体がハプスブルク家のおかげと言ってよい。ろくすっぽ耕地もない貧しいブランデンブルク公国を王国に昇格してくれたのは、カール6世の父レオポルト1世だった。このように、フリードリヒは二重にハプスブルク家に対して恩義ある立場だった。
まだある。それまで知られていたフリードリヒのイメージだ。それをもたらした彼の著書。その名も『反マキャヴェリ主義』。冒頭でフリードリヒはこう宣言する。
「マキャヴェリは政治を腐敗させ、あつかましくも健全なる道徳の掟を踏みにじった。私は人間性の擁護のために、『君主論』の章を追って論じ、その毒に対する解毒剤を見出そうとするものである」
君主のモラルはルネサンスの政治家マキャヴェリが唱えた弱肉強食主義、権謀術数主義ではなく、穏和を旨とすべきだと主張していたフリードリヒ。政治の経験などまるでないマリア・テレジアを遺してカール6世が死に、彼の前には肥沃なシュレージエンがぶら下がっている。シュレージエンの防備は手薄。プロイセンには父が残した強力な軍隊。フリードリヒは愛するプロイセンのために、いとも簡単に「反マキャヴェリ主義」を捨て、「シュレージエン泥棒」となった。そして、マリア・テレジアに使者を送る。
「ハンガリー女王は孤立しておられる。四囲は敵ばかりである。プロイセン王は、女王をぜひともお助けしたいと願っている。王がシュレージエンへ進軍しているのは、ただ他国によってこれを奪われないため、オーストリアを守護するためなのである。それに王は、女王に300万グルデンを差し上げたいと思っている。またフランツ・シュテファン閣下が皇帝に選出されるようにも取り計らいたい。その代償として王が求められるのは、ただシュレージエンの譲渡だけである。」
ウィーンの王宮における秘密会議を支配したのは事なかれ主義。シュレージエンを放棄して、とりあえずプロイセン王の要求を受け入れようとという意見ばかり。老臣たちにはわかっていなかった。シュレージエンの割譲を認めるということは、次にベーメンやメーレンも狙われるであろうということが。しかし、マリア・テレジアだけは違った。毅然とした態度で言い放った。
「シュレージエンを割譲することは決してなりません」
この時、彼女は3人の幼子をかかえ、4人目の子を懐妊していた。フリードリヒ2世とマリア・テレジアの長い戦いが始まる。
ダニエル・シュメドゥリ「マリア・テレジア 1742」ブラチスラヴァ 市立ギャラリー 部分
ダニエル・シュメドゥリ「マリア・テレジア 1742」ブラチスラヴァ 市立ギャラリー
アントワーヌ・ペスヌー「フリードリヒ2世 1745年」
アントワーヌ・ペスヌー「フリードリヒ2世 1746年」
「フリードリッヒ大王騎馬像」ウンター・デン・リンデン
アントワーヌ・ペーヌ「フリードリヒ・ウィルヘルム1世」シャルロッテンブルク宮殿
アブラハム・ヴォルフガング・キュフナー「カッテの処刑 1730年11月6日」
王太子フリードリヒは窓から身を乗り出して叫んだ。「カッテ、私を許してくれ!」「殿下、私は喜んであなたのために死にます」とカッテは答えた。
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