「ベル・エポックのパリ」18 社会の大転換(7)鉄道と余暇②コート・ダジュール
パリ・リヨン駅が、リヨン鉄道の終着駅として営業が開始されたのは1848年。1857年にパリ‐リヨン線がリヨン‐地中海線と合併され、パリ(Paris)‐リヨン(Lyon)‐地中海(Méditerranée)鉄道、頭文字をとってPLM鉄道となったことから地中海方面への玄関口としてにわかに脚光を浴びるようになる(1901年に改装)。
これには、肺結核の流行もあずかっていた。19世紀を席捲した病である結核は、20世紀半ばにストレプトマイシンが開発されるまで、転地と食事療法のほか治療法のない「死に至る病」であった。患者は日光と新鮮な空気を求めて都市を旅立つ。19世紀後半、ヨーロッパ各地に広まった結核療養のサナトリウムの中でも名を馳せたのはスイスの山岳地方だが、そうした動きの中で、フランスからイタリアにまたがるリヴィエラ海岸は温暖な地中海性の気候ゆえに上流階級の結核療養地となった。
世紀末の結核保養の雰囲気を正確にうつしとっているのがモーパッサンの短編小説『初雪』。時は1883年。穏やかに晴れた冬のある日、カンヌはラ・クロワゼット通りのプロムナードのベンチに蒼ざめた女がひとり、海を見ている。太陽に恵まれたこの避寒地にはオレンジやレモンの樹がたわわに金色の果実をつけ、それらの樹々に囲まれながら、白い別荘が陽の下に点在している。
「ひとりの若い女が、いま、ラ・クロワゼットの通りに面して門のある小さなしゃれた家から出てきた。・・・20歩も歩くともう疲れて、喘ぎながら腰をかけた。その蒼白い顔は死人のようだった。咳をして、透きとおった指を唇にあてた。ぐったりとからだにこたえるその咳をとめようとでもするかのように。
彼女は、太陽が降りそぎ、無数の燕の飛び交う空を眺めた。遠くに、風変わりな形をしたエステレル山の頂きを眺め、目の前の海を眺めた。かくも青く、かくも静かで、美しい海を。
彼女はふたたび微笑を浮かべて、つぶやいた。
「ああ、なんて幸せなんでしょう」
けれども彼女は知っていたのだ。もうじき自分が死んでゆくということ、もはや二度と春を見ることはないことを。・・・
自分はもうこの世にいなくなるのだ。ほかの人びとには万事が続いてゆく。だが自分にとってそんなことはもうすべて終わってしまうのだ。これっきり永遠に。自分はもういなくなるのだ。そう思って、彼女は微笑んだ。そして、病んだ肺をもって、庭々に立ち匂う馨しい香りを、あらん限りの力で吸い込むのだった。」
やがてリゾートの大衆化の波がおしよせる20世紀を前にしながら、世紀末のコート・ダジュールは病める王侯貴族たちが死の旅路につく土地であったのだ。こうした上流階級の保養地としての南仏は、ノルマンディーの北の海浜(ディエップ、トゥルーヴィル、ドーヴィルなど)より後発のリゾート地。この北のリゾート地に追いつくべく、南仏リヴィエラ海岸の鉄道開発が進められたのは1860年代後半のことである。1859年にはカンヌに駅がつくられ、64年にはニース、68年にはモナコに鉄道が開通する。
ここで重要なこと、それは、この地中海の保養シーズンが《冬》であったということだ。コート・ダジュールが夏のリゾート地になるのはようやく第二次世界大戦後のことにすぎない。この南の海辺は何よりまず《避寒地》だったのである。病める者たちが暖かさを求めて滞在しに来る南の園、それがこの南仏のリゾート地であった。
ところで、こうした地中海に対する夢想をかきたてたもののひとつに、世紀末に登場した多色刷りの鉄道ポスターがある。パリ中の壁に貼り出された明るくブルーに輝く地中海のポスターは、陰鬱な冬の雲の下で暮らすパリジャンにとっては、手の届く楽園の出現を知らせる福音のように感じられたことだろう。
ポール・セザール・エリュー「ドーヴィルの海辺のエリュー夫人」1902~04年ボナ美術館
モネ「トゥルーヴィルの浜辺」1870年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
モネ「トゥルーヴィルの浜辺」1870年 ワズワース・アテネウム美術館
トゥルーヴィルのカジノのポスター
ウジェーヌ・ブーダン「ドーヴィルのカジノのコンサート」1865年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
エルネスト・ビュテュラ「1876年 クロワゼット通り」カストル博物館 カンヌ
PLM鉄道のポスター「冬をニースで」 1892年
PLM鉄道のポスター「冬をニースで」
PLM鉄道のポスター「ニース」 1900年
PLM鉄道のポスター「ニースのカーニヴァル」 1902年
PLM鉄道のポスター 「マントン」
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