「ベル・エポックのパリ」15 社会の大転換(4)電話

 1876年に電話を発明したのはグラハム・ベルだが、それをクレマン・アデールは改良し、1878年のパリ万博で登場させた。そして1880年にはパリで最初の電話網を作り上げる(三つの民間企業による電話網)。1881年には「テアトロフォン」("Théâtrophone")を発明。これはアミューズメント装置として、この年にパリで開催された国際電気博覧会で人気を集めた。アミューズメントというのは、オペラ座とコメディ・フランセーズの公演を電話で生中継する試みで、この「テアトロフォン」は入場者を存分に楽しませた。電話はいわば一種のラジオのような音響メディアとして成功したのであり、その成功のほどは、8年後の万博でも同じ試みが繰り返されたことからもうかがえる。ということを逆に言えば、電話が今日のようなパーソナル・メディアとして受容されるにはまだほど遠い時代だったということだ。

 フランスの電話網は、19世紀の末まで他国に比べてかなりの遅れをとることになった。これに対してドイツでは、郵政大臣のハインリッヒ・フォン・シュテファンが電話の重要性を正しく認識していたので、電話網は急速に整備されていった。やがて、第一次世界大戦当初の情報戦でドイツは圧倒的な優位を保つことになるが、それはまさにこの独仏の電話網の差だったと伝えられている。フランスの電話網の整備になんとか目鼻がつき始めたのは、1891年に経営が民間から国家の手に移って、郵便・電報・電話省(PTT)になってからのことにすぎない。

 しかし、整備には時間がかかったが、電話は、確実に人々の生活や意識を変えていった。プルーストは『失われた時を求めて』の中で、電話によるコミュニケーションの劇的変化を次のように表現している。

「唐突な変化をもたらすこのすばらしい魔法、それは、しばらく辛抱して待っていれば、われわれのそばに、こちらが話したいと思っていた相手の人を、目に見えないがそこにいるのとおなじように出現させるのであり、その相手の人は、まだその食卓を離れず、住んでいる町(私の祖母ならばパリであったが)のなかで、こちらとは異なる空の、これまたかならずしもおなじではない天候のもとで、話をきくまではこちらの知らない状態にいて、こちらの知らない何事かに没頭しているわけであるが、その人を、われわれの気まぐれが命じた一定の時刻に、われわれの耳もとまで、数百里をへだてて(その人も、その人が投げこまれている環境も、ともどもに)、突然はこんでくるのである。そしてわれわれはまったくおとぎ話の人物そっくりになり、魔法使の女が、このわれわれの訴えるねがいにもとづいて、本をめくっている、涙を流している、花を摘んでいるわれわれの祖母とか婚約者とかの姿を、超自然な光のなかに出現させてくれるのだが、その祖母なり婚約者なりは、それをながめるこちらのすぐそばにいながら、それでいて非常に遠く、彼女が現実にいるその場所を離れてはいないのである。」

 ちなみに「魔法使いの女」とは「電話交換手」のこと。プルーストはさらに、相手の顔面を見ることなしに声だけ聞こえる電話が、新しい発見を生んだことについても述べている。「私」が、愛する祖母の声を聞いた時の場面。

「その声はやさしかった、しかしまた、なんと悲しげであったことか! 悲しげであったのは、第一に、ほかならぬそのやさしさのためであった、そのやさしさは、あらゆる苛酷なもの、他人にさからうあらゆる要素、あらゆるエゴイスムを濾しさった、ほとんど人間の声がそれ以上に達したことはなかったほどの、にごりのないものであった! あまりの繊細さのゆえに、もろくて、いまにも涙の清らかな波のなかにこわれて消えてしまいそうに思われる声であった。その声が悲しげであったのは、第二に、顔面を見ることなしにただそれだけをすぐそばにきき、はじめて私が、その声にこめられている悲しみに、そして長い生涯のあいだに悲しみがその声にはいらせてしまったひびに、気がついたからなのであった。」

アルベール・ロビダ「電話で話し合う男女」風刺画 (『20世紀』1883年)

グラハム・ベル自ら電話機で話す様子 (1876年)

1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベル

クレマン・アデール

ジュール・シェレ「テアトロフォン」ポスター 1881年

コインで動作するアトロフォン受信機(1892年頃)

「テアトロフォン」を聞く人々

「テアトロフォン」を聞く女性

「テアトロフォン」

ハインリッヒ・フォン・シュテファン

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