「ベル・エポックのパリ」14 社会の大転換(3)デパート

 1851年12月に権力を掌握して以来、ナポレオン3世は、商工業の振興には関税障害の撤廃が欠かせないというサン・シモン(フランスの初期社会主義者。経営者・労働者一体となった産業社会を構想)主義者たちの主張を容れ、関税率の引き下げに努めてきたが、わずかに、石炭、鉄鉱石といった一次産品の関税引き下げに成功したにとどまっていた。反対勢力は、関税率が引き下げられれば、イギリスの安価な繊維製品がフランスに流入し、産業を破壊すると主張していた。これに対し、関税引き下げを歓迎していたのは、第二帝政開始とともに産声をあげたデパートや量販店などの商業資本家。彼らにとって、仕入れ値が引き下げられ、大量販売が可能になる措置ならば、どんなものでも諸手を挙げて賛成だったのである。

 ナポレオン3世は、1855年に開催して大成功を収めた万国博覧会の経験から、関税引き下げは一時的に混乱を招いても大局的にはフランス産業の基盤を強くするとの確信を強め、イギリスとの関税協定締結に向けて密かに準備を進める。そして1860年1月23日に突然締結。これによってフランス経済は一時的な景気後退に陥ったものの、翌年から効果が現れ始め、商業のみならず鉱工業も未曽有の繁栄の時代を迎える。

 この結果を確認した政府は、1862年からベルギー、プロシアなどとも通商協定を結び、1866年にはヨーロッパのほぼすべての国との自由貿易体制を整えた。その結果、1860年から70年までの10年間に、フランスの対外貿易額は倍増して、フランスは第二次産業革命を経て、イギリスと肩を並べる経済大国にまで成長したのである。

 そして、この通商協定による第二次産業革命で、最大の利益を享受したのが「ボン・マルシェ」、「プランタン」などのデパート(グラン・マガザン)である。デパートは、いずれも、王政復古から七月王政の時代に生まれた安物衣料の量販店「マガザン・ド・ヌヴォテ」(流行店)を起源にしている。マガザン・ド・ヌヴォテは、問屋を介さない直接取引による商品の低価格化、広告の活用と派手な外装による集客戦術、定価販売、入店自由など、後にデパートで活用される商業のノウハウを先取りして実践していたが、ただ一点、「商業とは騙し売り」であるという昔ながらの商人根性を捨て去ることができなかった。そのため、客は、安さと宣伝に釣られて一度は店に足を運ぶものの、固定客となって店を支えるまでにはならなかった。

 この一点を突破して、近代商業の全面展開に成功したのが、1852年に、マガザン・ド・ヌヴォテの一つ「プチ・サン・トマ」から独立して、パリ左岸のセーヴル街とバック街の角に「ボン・マルシェ」を開店させたアリスチッド・ブシコー。彼は、マガザン・ド・ヌヴォテの商業システムを改良し、それを芸術ともいえるほどの域に高めた商業的革命家である。

 彼は厳しい品質管理と返品自由の制度導入によって騙し売りの商人根性と訣別。これによって、「誠実さ」というものが最もよく売れる商品となり、近代的な商業が成立したのである。また、デパートをオペラ座やカテドラル(大寺院)と比較できるような豪華絢爛たるトポスに変容させることで、それまでの「必要による買い物」を、「欲望による買い物」へと変えた。鉄とガラスでできた夢の神殿のような巨大な空間に入った消費者は、商品を買うことを一つの快楽と意識するようになる。いいかえれば、ブシコーは、デパートを消費者に夢を見させるドリーム・ワールドに変えることで、それをある種の欲望喚起装置へと変容させたのである。

 以上のような商業戦略を完成しつつあったブシコーにとって、1860年に始まる関税革命は、強力な追い風となって機能した。安くて良いものを大量にという、ブシコーの掲げる理想(「ボン・マルシェ」とは「安い」という意味)に現実が一歩も二歩も近づいたのである。そして、ブシコーによるデパート革命は、その追随者やライバルを大量に発生させ、パリを世界一の商業都市へと発展させることになる。

 ちなみに、1865年創業の「プランタン」デパートの主ジュール・ジャリュゾーは、「ボン・マルシェ」の売り場主任として辣腕を振るった後、資本を得て独立。彼は、オスマンのパリ大改造でグラン・ブールヴァ―ルの北側地区が大きく変わり、商業地区として大発展するのを確信すると、ここに初めから巨大な資本を投下して豪華な外装のデパートを建設することにした。賭は当たり、「プランタン」は数度の大火にもかかわらず右岸最大のデパートへと発展していくことになる。

ブーグロー「アリスティッド・ブシコー」

「ボン・マルシェ」 1887年

「ボン・マルシェ」 1892年 セーヴル街の正面入口 

 商店というよりも、劇場か大寺院を思わせる建築。入口の上には女像柱が飾られ、屋根には見事なドームが載っている。建物のわりに、入口を小さくすることで大混雑を演出。

「ボン・マルシェ」のホール 1875年

「ボン・マルシェ」のホール 1875年

「ボン・マルシ」の読書室  待合室を兼ねていた。まるで美術館のよう。

「ボン・マルシェ」 新館に設けられた従業員用の食堂 

 昼と夜の2回出された食事は、質量とも満点で、しかも無料。

 (上図)男子店員用の台食堂(真ん中)女子店員用の食堂 (下図)巨大な調理場

「ボン・マルシェ」ポスター 1896年

「ボン・マルシェ」ポスター 1923年以前 

 女性が誘惑品に身をゆだねるように、ライフ・スタイルの提唱もした(例えば、海辺でのヴァカンスの勧め)

(現在)「ボン・マルシェ」

(現在)「プランタン」本店

 壁面のポスターも、エッフェル塔を模していてインパクトあり

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