「フランスの宮廷と公式愛妾」9 ディアヌ・ド・ポワチエ(4)王太子妃カトリーヌ

 結婚後もアンリとディアヌの関係は変わらない。ディアヌはフォンテーヌブロー城に住み、アンリとともに本を読み、感想を語り合い、城の壁を飾る絵画を一緒に鑑賞し、夜になるとそれぞれの寝室に向かっていた。カトリーヌの運命が大きく変わったのは1536年。王太子フランソワが激しい運動の後一気に飲み干した水が原因で突然死去。水を王太子に渡したもとカルロス5世の臣下だったモンテククリがとらえられ拷問にかけられる。彼は水に毒を入れたことを自白し、自分にその行為を命じたのはカルロス5世だと自白。死体解剖の結果、毒物の発見されたことを立証するものはなにもなかったが。モンテククリは四頭の馬に手足を括りつけられて、生きたまま八つ裂きの刑に処せられた。犯人扱いされたフランスの宿敵カルロス5世はどうしたか?なんと、主犯として第2王子アンリの嫁であるカトリーヌの名を挙げたのだ。

 王太子の死で一番得をするのは当然第2王子のアンリとカトリーヌ。日頃からカトリーヌに反感を抱いていた人々の声が、爆発する。王太子となったカトリーヌが、結婚後3年経っても子供が生まれないことも大問題となった。アンリに欠陥があるのか、カトリーヌが不妊症なのかはわからない。カトリーヌも必死にいろいろな方法を試す。全国津々浦々から名高い錬金術師や魔術師を招び集め、彼らの提供する奇想天外な処方に身を委ねる。「猪の生殖器を身につける」、「毎月一回牡驢馬の尿を一杯飲む」、「イタチの後ろ脚を酢に浸したものを食べる」などを勧められたようだが、実際すべてが試みられたかは判然としないが。しかし、依然として妊娠の兆候はあらわれない。それどころか、追い討ちをかけるようにカトリーヌが恐れていたことが起きる。1539年、アンリがピエモンテ遠征の折に関係を持ったフィリッパ・ドゥチというイタリア娘が赤ん坊を生んだのだ。これによって不妊の責任がカトリーヌのほうにあることが立証されたことになる。王位継承権が正妻の子にのみ認められるフランスで、王太子妃に子供が生まれないならヴァロア朝はアンリの代で絶えてしまうことになる。

 前王太子フランソワの死後、カトリーヌの周囲で囁かれ始めた陰口は、今や世論にまで高まっていた。彼女を離婚して新しい妃を迎えようではないか。議会も満場一致でカトリーヌの離婚を主張する。こんな追い詰められたカトリーヌに救いの手を差し伸べたのはなんと夫の愛人ディアヌだった。一見奇妙にも見えるが、ディアヌにとってカトリーヌの離婚は自分の地位も危うくするのだ。カトリーヌが追い出されれば、新たに迎えられるのは家柄もよい、若くて美しい妃だろう。そして早々にアンリの嫡子を設けるだろう。何よりもその新王妃は、若さというディアヌの失ってしまった武器を持っている。不安に駆られたディアヌは突如としてカトリーヌの良き友となる。それからカトリーヌの離婚によって被害を被る人間がもう一人いた。カルロス5世との戦いで目覚ましい武勲をおさめ、みるみるうちに宮廷内の勢力を増してきた大元帥モンモランシーデアル。カトリーヌのあとに有力候補のルイーズ・ド・ギーズが王太子妃の座に上れば、ギーズ家の勢力が一躍拡大することは目に見えている。こうしてカトリーヌ、ディアヌ、モンモランシーの間に一時的な同盟が成立。

 カトリーヌは危機を脱した。そしてカトリーヌが待ちに待った日が訪れる。1544年1月16日、世継ぎが誕生。王太子フランソワ、のちに父アンリ2世を継いで王座に上るフランソワ2世である。そしてここからのカトリーヌの出産のペースには驚かされる。12年間に次々と計10人の子を産み落としたのだ。ほとんどあきらめられていた第一子の出産は、カトリーヌの苦しい立場を救った。それだけでなく、彼女自身に自信と威厳を与えた。しかし、この出産によってカトリーヌの王太子としての地位が強化され、ディアヌの地位が弱体化したとみるのは誤りである。なぜか。


「アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシス」アネット城

コルネイユ・ド・リヨン「カトリーヌ・ド・メディシス」  結婚当初のカトリーヌ

アンヌ・ド・モンモランシー

フランソワ2世  カトリーヌ待望の長男

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