「フランスの宮廷と公式愛妾」8 ディアヌ・ド・ポワチエ(3)結婚

 ディアヌが若い王子に悪影響を与えていると国王に忠告する者もいたが、フランソワ1世はディアヌに満足していた。そして14歳になったアンリに結婚の時期がやってくる。二人の王子釈放のために莫大な身代金を払ったフランスは、国庫が空っぽ。それを埋めるために、早急に大金を必要としていた。王太子の結婚相手は後に王妃となる人だから、ヨーロッパの王家の血を引く王女でなければならない、しかし次男のアンリには、身分よりも持参金。目を付けたのは、14世紀初頭に商業で莫大な財を築き、大銀行家となり、フィレンツェに君臨するメディチ家。国王がこよなく愛するイタリアのルネサンス文化の発展にも大きく貢献している。それだけではない。一族からはレオ10世、クレメンス7世とふたりもローマ教皇が出ている。

 選ばれたのはカテリーナ・ディ・メディチ。ロレンツォ・イル・マニフィコの孫ウルビーノ公ロレンツォとフランソワ1世の従妹マドレーヌとの間で生まれた。つまりフランス人の血もひいている。誕生直後に両親を失い、枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の保護下にフィレンツェで育ち、イタリア戦争渦中の1529~30年のフィレンツェ包囲戦では共和国側の人質として尼僧院に幽閉された(3年間)。共和派が敗れて救出され、11歳のカトリーヌはローマに移り、教皇クレメンス7世の宮廷でメディチ家にふさわしい教育を受けていた。カテリーナは真面目で賢い少女だった。文学、絵画、語学、哲学、数学、音楽、そのすべての分野で優秀だった。欠点はただ一つ、容姿に恵まれていないこと。肌は浅黒く、鼻は大きすぎ、唇は厚ぼったく、目はギョロギョロしていた。アンリはこの結婚に不満だった。その王子を説得したのはディアヌだった。

 1533年10月28日、アンリとカテリーナの結婚式は南仏のマルセイユで行われた。このときから、カテリーナはフランス風にカトリーヌ・ド・メディシスと呼ばれるようになる。カトリーヌは、微笑みながら一生懸命に愛嬌を振りまいていたが、アンリの関心を引くことは一度としてなかった。式中も、その後の祭典の間も、アンリがひたすら追っていたのはディアヌの姿だった。

ところで、ディアヌの美しさとはどのようなものだったか?ディアヌがモデルとされている絵画がフォンテーヌブロー派の無名の画家たちの手によって残されている。「狩猟の女神ディアナ」、「ディアナに扮するディアヌ・ド・ポワチエ」、「サビナ・ボッペア」など。そこから浮かび上がるのは、中高のひろい額、筋の通った鼻、弓型の眉、支配的なまなざし、尊大な笑み、大柄でしなやかな肢体、しっかりした首、丸味のある方、おおらかな肉付きの良い腕、抜けるように白い肌。ディアヌは、当時のフランス人の眼に完璧なものと映る、あらゆる美点を兼ね備えていた。ディアヌの次の八つの美点は、この時代の美女の条件として、フランスじゅうの女たちがその条件に少しでも近づこうとやっきになったと言われる。

 白いもの三つ・・・・・肌、歯、手      黒いもの三つ・・・・・眼、眉、睫毛

 赤いもの三つ・・・・・唇、頬、爪      長いもの三つ・・・・・胴体、髪、手

 短いもの三つ・・・・・歯、耳、足      細いもの三つ・・・・・唇、胴回り、足

 太いもの三つ・・・・・腕、腿、ふくらはぎ  小さいもの三つ・・・・・乳首、鼻、頭

 こうしたディアヌの美貌の秘密は、規則正しい生活と適切な健康法にあったようだ(ひそかに魔法を用いているのではないか、と噂されたりもしたが)。朝6時に起きて冷水を浴び、馬に乗って3時間余り田園を走らせる。帰ってから再びベッドに身を横たえて休息をとって本を読む。10時頃軽い食事をとって後の時間を社交に費やす。夕食は午後6時に決め、床に就くのは早かった。白粉も香油も彼女には無用だった。頬紅さえも自然の肌の艶をうしなわせるといってひどく嫌った。

ヤコポ・ダ・エンポリ「カトリーヌとアンリの結婚」ウフィツィ美術館  部分

セバスティアーノ・デル・ビオンボ「クレメンス7世」J・ポール・ゲティ美術館

フォンテーヌブロー派「サビナ・ポッペア」ジュネーヴ美術歴史博物館

フランソワ・クルーエ「化粧室のディアヌ」ワシントン・ナショナルギャラリー

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