「フランスの宮廷と公式愛妾」6 ディアヌ・ド・ポワチエ(1)愛の始まり
マキャヴェリ『君主論』の有名な一節。
「そこで野獣の気性を適切に学ぶ必要があるのだが、この場合、野獣の中でもきつねとライオンに学ぶようにしなければならない。理由は、ライオンは策略の罠から身を守れないし、きつねは狼から身を守れないからである。罠を見抜くという意味では、狐は狼からである。罠を見抜くという意味では狐でなくてはならないし、狼どものどぎもを抜くという点ではライオンでなければならない。」
しばしば批判の対象となるが、そこにはリアリズムに基づく冷徹な政治観が展開している。この『君主論』が献上され相手はウルビーノ公ロレンツォ2世。あのフィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主ロレンツォ・イル・マニーフィコ(ロレンツォ豪華王)の孫である。そして、ウルビーノ公ロレンツォ2世の娘がカトリーヌ・ド・メディシス(イタリア語では、カテリーナ・ディ・メディチ)だ。《聖バルテルミーの虐殺》の黒幕とされ、フランス史上一の悪の王妃とも称されるが、フランス王家に嫁いだ(夫は王太子フランソワではなく第二王子オルレアン公アンリ)ころの彼女は決して強い女ではなかった。
結婚式は1533年10月28日にマルセイユで挙行された。この時、カトリーヌ14歳。初めて会ったアンリにたちまち恋に落ち、夢中になる。しかしそれは不幸の始まりでもあった。アンリの方は憂鬱そうな仏頂面。冷淡な無関心。特に彼女に対してだけ見せた表情ではなく、その不幸な生い立ちがなせるわざだったが。カトリーヌは確かにまだ強くはなかったかもしれないが、すでに冷徹なリアリストではあった。自分の容貌には少しも夢を抱いていない。美貌という武器を持たない自分が、何を頼りに生きていけばよいかも学んでいた。だから、自分の努力でアンリの心を自分に振り向かせられると信じていたことだろう。しかし、結婚の祝宴中にカトリーヌは気づかされる、自分には強力なライバルがいることに。カトリーヌと同じ14歳のアンリが夢中になっていたのは、なんと20歳年上のディアヌ・ド・ポワチエ。ディアヌへのアンリの想いを知るにはアンリの不幸な少年期を知る必要がある。
王太子フランソワが父フランソワ1世に似て気丈で快活で楽観的な性格だったのに対して、アンリは母クロードに似てやさしく繊細でロマンティックな性格だった。母は、自分によく似たアンリを特別にかわいがり、アンリも母に甘えたが、5歳の時に母はこの世を去る。もともと無口だったアンリは以後ますます口数が少なくなる。そして2年後には、さらなる過酷な運命が待ち受けていた。1525年2月24日、北イタリアのパヴィアでフランソワ1世はカール5世軍に敗れ、捕虜となる。講和条約で自由の身となるが、それには交換条件があった。それは、二人の王子を人質としてスペインに引き渡すこと。フランソワ1世の母ルイーズは、息子が釈放される喜びに浸る反面、幼い二人の孫(フランソワ8歳、アンリ7歳)が人質としてスペインに送られることに苦しむ。せめて、異国に旅立つ王子たちの行列を華麗なものにしようと、宮廷の侍女たちに着飾って同行することを求めた。ロワール川のほとりにあるブロワ城を発った一行は、国王と王子の交換場所である、フランスとスペインの国境を流れるビダソア川に向かう。二人の王子はフランス兵に付き添われて船に乗り込み、川の中央で待つ小舟に向かい、スペイン兵の手にゆだねられる。二人の王子が舟に乗ろうとしたまさにその時だった。突然、一人の女性が年下の王子アンリのもとに駆け寄った。そしてアンリの足元にひざまずき、周囲の目をはばかることなく、王子を両手で胸にかき抱き、髪の毛を何度も何度も優しくなでた。そして前髪を上にあげ、ひたいにそっとくちづけをした。ほほには大粒の涙がとめどなくつたわっていた。これがアンリの母クロード王妃の侍女だったディアヌ・ド・ポワチエである。このとき、アンリのディアヌへの愛が始まった。
サン・バルテルミーの虐殺
カトリーヌとアンリの結婚
フランソワ・クルーエ「カトリーヌ・ド・メディシス」カルナヴァレ美術館
フォンテーヌブロー派「狩人姿のディアナ」ルーヴル美術館
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