「フランスの宮廷と公式愛妾」5 アニェス・ソレル(5)百年戦争終結


 シャルル7世は、戦闘的なジャンヌ・ダルクと違ってイギリスとの戦いには消極的だった。そんな彼が、やがてイギリス軍への攻勢を強め、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、その後、1450年にはノルマンディを攻略、1453年にはギュイエンヌを回復し、カレーを除いてほぼフランス本土からイギリス軍を撤退させ、百年戦争を終結させ、そのため、シャルル7世は「勝利王」といわれることとなった。一体、シャルル7世はどうしてこのように積極性を取り戻していったのか?

 シャルル7世を奮起させた原因は。フランス宮廷史上初の公式愛妾だったアニェス・ソレルの存在が大きい。アニェスにのぼせあがり、彼女の愛に浸りきって、国のことなどお構いなしの腰抜けシャルルに、ある日アニェスはこう言ったそうだ。以下はブラントーム『好色女傑伝』の記述。

「あたくしがまだ娘のころ、ある占星術師があたくしはいつかはキリスト教国で一番勇敢な、男らしい王様のおひとりにご寵愛を受けることになるだろう、と予言いたしました。陛下が、かたじけなくもあたくしをご寵愛下さいましたおりには、陛下こそあの占星術師の予言にあった、勇敢な王様と信じておりましたが、現在そのような柔弱なご様子やら、国事をほとんどお忘れになっているお姿を見ては、あたくしのめがね違いであった、あの勇敢な王様というのは陛下のことではなく、あの見事な戦ぶりで、陛下の鼻先から人もなげに多くの町を、次から次へと攻め取ってゆく、イギリス王(ヘンリ6世)のことだとわかりました。」

 そしてアニェスはこう言葉を結んだ。

「ですからあたくしは、これからイギリス王に会いに参る所存でございます、と申しますのは、占星術師の予言したのはまさにあのお方ゆえ」

 こんな言葉を投げかけられて、シャルル7世はどうなったか?まずは手放しで泣き始めた。しかし、そこからアニェスを引き留めておくために一念発起。好きだった狩猟も庭いじりもやめる。1449年8月6日、シノン城を離れ、イギリスとの会戦が待つノルマンディへと向かった。そしてイギリス軍を相手に戦う国王軍は、快勝に快勝を続け、カレーを残してイギリス勢力をフランスから駆逐するのに成功する。

 しかし、シャルル7世とアニェスの最後は決して幸福なものではなかった。2005年4月2日、フランスのフィガロ紙がこんな記事を発表した。

        「アニェス・ソレル、毒殺。科学調査で明らかに」

 彼女の遺骸に残っていた髪の毛から、驚くほど多量の水銀が検出されたのだ。彼女は回虫症にかかっていて、その治療に水銀を使用していたが、故意に必要以上の水銀を与えられたとの決断から毒殺説が挙げられたのだ。アニェスの腹部には7か月の胎児の一部も残っていた。アニェスは国王の4番目の子供をみごもったまま毒殺されたようだ。国王の公式愛妾になり絶大な権力を手にした彼女には当然敵は多かった。

 アニェスを失ったシャルル7世は、アニェスが死の床で3人の娘の養育を頼んだ従姉妹のアントワネットを愛妾にする。他にも多くの愛妾を持つ。しかし公式愛妾になったものは誰もいなかった。美しいだけでなくシャルルを奮い立たせるような特別な魅力が公式愛妾には求められるのだろう。肉体の魅力だけでは公式愛妾は務まらない。

 ところで、アニェス・ソレルの魅力の一端を今に伝えるのが、ジャン・フーケ(イタリアを旅行し、初期ルネサンスをイタリアに紹介した最初の芸術家)が彼女をモデルにして1450年ごろに描いた「天使に囲まれた聖母子」(アントワープ王立美術館)。片方の乳房を露わにしているが、これは一つのファッション。彼女はこのファッションを広めようとしたようだったがさすがに受け入れられなかったようだ。アニェスは最初にダイヤモンドを身に着けた女性(それまでダイヤモンドは、男性のみが使っていた)としても知られている。時代の先端をいく女性だったのだろう。そういう人間には敵も多いが。

シャルル7世が私邸としてアニェス・ソレルに与えたロシュ城

ロシュ城

ジャン・フーケ「ムーランの聖母子」アントワープ王立美術館

ジャン・フーケ「アニェス・ソレル」

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