2021.12.16 04:21「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」24 「鳥羽伏見の戦い」 薩摩打倒を強く願いつつ、天皇の目前での戦争を避けようとした慶喜。出軍する兵士に「決して兵端を開くことの無いように」といった趣旨の下知(指図)をする一方で、京都の地以外では薩摩藩に対して容赦ない姿勢を示す。慶応4年(1868年)1月2日、幕府の軍艦2隻に兵庫沖に停泊していた薩摩藩...
2021.12.15 03:46「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」23 15代将軍徳川慶喜③王政復古のクーデター後 「王政復古のクーデター」は慶喜の知らないところで行われたわけではない。慶喜は、クーデターの3日前(12月6日)に越前藩(松平春嶽)からクーデター計画を知らされていた。だから、慶喜はクーデターをつぶそうと思えば潰せた。摂政の二条斉敬や会津藩に通知すれば、いとも簡単にクーデターを阻...
2021.12.14 04:31「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」22 15代将軍徳川慶喜②大政奉還 慶喜が大政奉還を決意するに至るのは、倒幕の動きを現実的な問題と捉えるようになったからだが、慶応3年(1867年)8月上旬頃までは、まだ危機感をそれほど強くは抱いていなかったようだ。それが、8月下旬頃には、事態の深刻さを相当程度認識するようになる。何が変化の原因だったのか? 8月...
2021.12.05 05:18「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」21 15代将軍徳川慶喜① 慶喜への将軍宣下、すなわち慶喜が徳川第15代将軍になったのは慶応2年(1866年)12月5日。そして慶喜が大政奉還の上表文を提出したのが慶応3年(1867年)10月14日で、翌15日には承認の返答が下された(勅許)。だから、慶喜が将軍として活動したのはわずか1年足らず。この間に...
2021.12.04 01:12「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」20 「将軍空位期」 条約勅許・兵庫開港問題でしばらく忘れられていたが、当時の幕府が直面していた最大の課題は、第二次長州征伐だった。そもそも、そのために将軍は大坂まで来ているのだし、再征勅許もすでに得てある。しかし、なおも広島での交渉を続け、朝廷の承認を得ての最後通告、期限までの回答がないことによっ...
2021.12.01 02:04「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」19 家茂の将軍辞意表明と条約勅許 渡来した英仏蘭米四ヵ国の軍艦9艘には四ヵ国の公使(ただし米蘭は代理公使)が乗っていた。彼らは、元治元年(1864年)9月16日、兵庫沖に到着したが、その目的は次の三つの達成だった。①通商条約の天皇による承認②下関賠償金の3分の2の免除と引き換えの、大坂開市・兵庫開港の即時実施 ...
2021.11.30 03:36「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」18 第一次長州征討 京都から発せられた将軍進発要を拒否し続けた江戸の幕府首脳は、代行者(征長総督)でことを済まそうとする。この総督人事は最初からもたつく。元治元年(1864年)8月5日、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を征長総督に任命するが、わずか2日後の8月7日、茂承は更迭され、代わって前尾張藩主徳...
2021.11.29 04:00「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」17 幕府の慶喜敵視 「禁門の変」は一日で決着がついた。そして、この戦闘の最中、長州藩士父子が京都に派遣した家老の国司信濃(くにししなの)に授けた軍令状が発見されたことによって、長州藩は「朝敵」となる。すなわち、彼らが初めから軍事力によって目的を達成する計画であったことが明らかとなった。ここに、長州...
2021.11.28 05:34「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」16 禁門の変(蛤御門の変) 慶喜が禁裏御守衛総督の職にあったのは、元治元年(1864年)3月から慶応2年(1866年)8月までの2年5カ月。まさに幕末動乱期で主な出来事だけでも、池田屋事件、禁門の変、四国艦隊の下関砲撃、第一次長州征伐、条約勅許、薩長同盟、第二次長州征伐、将軍家茂死去。慶喜はこのような出来...
2021.11.27 04:54「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」15 禁裏御守衛総督 横浜鎖港方針の幕府の側に立って参預会議を解体に追いやった慶喜だが、いくつかの点をここで確認しておきたい。まず、幕府の「鎖港方針」について。幕府は日米修好通商条約に続き、イギリス・フランス・オランダ・ロシアともとも相次いで通商条約を結んだ(安政の五カ国条約)。そして、外交体制を整...
2021.11.26 03:12「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」14 「参預会議」解体 再上洛した慶喜は、すぐに主役としての役割をはたしはじめる。文久3年12月30日、慶喜は松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂とともに、朝廷から「参預」に命じられる(藩主になったことがないので無位無官だった島津久光も従四位下左近衛少将に叙任され、文久4年1月13日に参預に任命)。...
2021.11.25 01:18「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」13 将軍後見職の辞表提出 このままでは、いつまでも京に引き留められ、朝廷内の攘夷派が暴発し乱行に及ぶ可能性もある。場合によっては将軍家茂の命も危険にさらされるかもしれない。そこでようやく幕府も覚悟を決める。文久3年4月20日、ついに「5月10日をもって攘夷を決行する」と家茂の名で約束したのである。そして...