「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」18 第一次長州征討
京都から発せられた将軍進発要を拒否し続けた江戸の幕府首脳は、代行者(征長総督)でことを済まそうとする。この総督人事は最初からもたつく。元治元年(1864年)8月5日、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を征長総督に任命するが、わずか2日後の8月7日、茂承は更迭され、代わって前尾張藩主徳川慶勝が任命される。幕閣内部の勢力争いが原因のようだ。そんな背景があったから慶勝も逡巡し、病気を口実にしてなかなか就任を承諾しなかった。征長についての全権委任を条件(10月4日、慶勝に軍事全権委任状【黒印状】が交付)に、ようやく10月5日に正式に請書(承諾書)を出した。そして慶勝は、この後、西郷隆盛を参謀格に起用して、問題の早期解決を図り、それを達成した。
慶勝・西郷が早期解決を選択したのは、厳格な処置によって戦争を長びかせることで、日本が内乱状態に陥る(それは、ひいては欧米列強の内政干渉を招く)のを避けるためであった。また、切実な問題として、出陣が長引けば、動員された諸藩が経済的にひどく追い詰められることも十分に予想された。それゆえ藩主父子の意向に逆らって挙兵(「功山寺決起」12月15日)した高杉晋作らの動向にはあえて目をつぶって、事態を早期に収束したのである(12月27日、慶勝は独断で征長軍を解兵した)。
征長軍の解兵をみたあと、元治2年(1865年)1月14日、五卿は長州を去り、大宰府へと向かった。そして、このあと、京都と江戸双方の政治指導者をともに改めて悩ますことになったのが、将軍上洛問題。長州藩が降伏した後、具体的な長州藩の処分内容を決め、それを実行に移すためには、将軍が上洛することが不可欠だとされたからである。
この将軍進発をめぐって、徳川政権内で抗争が勃発し、最終的には進発推進派の老中(阿部正外や松前崇広ら)が勝利をおさめる。こうして、将軍の進発はようやくにして決定をみた。これを受けて、慶応元年
(1865年 4月7日に年号が「元治」から「慶応」に変わる)4月19日、幕府から諸藩に対し、長州藩に「容易ならざる企て」があるという理由で、将軍が江戸を進発することが布達される。しかし、将軍が上洛するかどうか明示されなかったうえ、初めから長州再征を目的としての進発とされたため、朝廷の内外で激しい反発が生じることになった。そこで幕府からも厚い信頼を寄せられていた容保(会津藩)が間に立って、将軍が下坂前に参内して、天皇(朝廷)尊奉の態度を示すように持って行くことで、なんとか折り合いをつけた。
将軍家茂は閏5月22日に京都に到着し参内。天皇から、将軍が大坂城にとどまり、諸藩の意見を聴いて長州処分を決定し言上すること、ならびに一会桑などと諸事相談するようにとの命令が下された。そして、閏5月下旬から6月にかけて大坂城の御用部屋で断続的に評議が行われ、処分に至るまでの段取りが決まる。つまり、岩国藩主(長州支藩)の吉川経幹(きつかわつねまさ)と、長州藩の末家にあたる徳山藩主の毛利元蕃(もとみつ)の両名を大坂に呼び出し、長州藩に関わる疑問点を問いただし、そのうえで最終的な処分に及ぶことになった。そして、その方針は朝廷の許可も獲得。ここに、かたちの上では、朝幕双方の合意にもとづく長州藩処分に至る手順が決定した。あとは、長州側が吉川経幹らを上坂させ、、幕命を受諾すれば、ことは収まるはずであった。
しかし、長州側は、3月下旬段階で、「武備恭順」(幕府に対して恭順な姿勢は崩さないが、もし攻撃を受ければ戦う)の方針を確立し、ついでこれに閏5月、岩国藩も参加したこともあって、慶喜や容保の予想に反し、吉川らの上坂を理由を設けて拒絶した。9月27日を期限に再度出頭を命じても拒否。9月21日、家茂は慶喜や容保を従え参内し、征長のやむをえない事情を奏聞。天皇は幕府側の要請を許可。ここに長州問題は、武力による解決の可能性が濃厚となる形で先に進むことになった。ところが、この段階で、想定外の大問題が発生。家茂が大坂城に戻ると、目の前の海に英仏蘭米4カ国の軍艦9艘が渡来していたのである。
幕府陸軍(『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』1866年)
西洋式軍装に身を包んだ幕府軍(1865年)
キヨッソーネ「西郷隆盛肖像」 鹿児島市立美術館
西郷と勝の大坂会談 西郷の長州処分の考えが大きく転換
「高杉晋作挙兵像」(功山寺境内)
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