「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」16 禁門の変(蛤御門の変)
慶喜が禁裏御守衛総督の職にあったのは、元治元年(1864年)3月から慶応2年(1866年)8月までの2年5カ月。まさに幕末動乱期で主な出来事だけでも、池田屋事件、禁門の変、四国艦隊の下関砲撃、第一次長州征伐、条約勅許、薩長同盟、第二次長州征伐、将軍家茂死去。慶喜はこのような出来事とどのように対峙したのか?
就任の翌月、慶喜の働きかけの結果、4月20日、参内した家茂に対して、大政を委任するとの勅書が下る。これは有力諸藩の中央政局登場以来、とかくゴタゴタしがちであった朝廷・幕府関係を、徳川政権へ条件付きで大政を再委任することで収束した、という点で重要な意味を持った。すなわち、慶喜や徳川政権首脳から言えば、彼らがともに嫌っていた、有力藩や攘夷派勢力の国政への干渉を、とりあえず阻止しえた点で大きな勝利であった。半面、その代償は小さくはなかった。朝廷を掌中に握るために必要な妥協だったとは言え、いっそう攘夷決行(横浜鎖港)を促されることになったからである。そして、慶喜が横浜鎖港を国是(国の方針)として受け入れたことによって、江戸の幕閣との深刻な対立を、このあと再度繰り返すことになる。
この頃、すっかり政局の中心となった京都で持ち上がったのが、長州藩兵の上洛問題。前年の「八月十八日の政変」で京都を追放された長州藩にとって、3月の参預会議の自滅は降って湧いたような好機到来だった。長州の国許ではいっぺんに巻き返しの声が高まり、5月中旬以降、長州藩兵があいついで上洛。そして、同志的な関係にあった諸藩や公卿を通じて、京都での復権と三条らの帰洛の実現をもくろみ、その活動が朝廷を大きく揺さぶる。ただし、政変以後の京坂の地に残って工作活動を行っていた桂小五郎は、冒険主義的な突出に批判的でブレーキをかけていた。
そんな情勢のさなかの6月5日、「池田屋事件」が起きる。京都守護職(会津藩主松平容保)配下の新選組が京都三条河原町の旅館池田屋を急襲し、肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)、長州の吉田稔麿(としまろ)その他20数名の尊攘派志士を殺傷し、捕縛した。有能な志士を何人も失って激高した長州藩内の空気は武闘路線に一変し、桂小五郎らの慎重論は吹っ飛んでしまう。急進派が、長州藩の復権に加え会津藩への報復を叫んで軍勢を上京させる勢いは、もうだれにも止められなかった。
この長州藩上洛問題に対して、慶喜はどのような対応をとったか?当初は、嘆願をすると称して上洛してきた者をみだりに討つのは不可としたうえで、理を尽くして、長州側に京都からの退兵と朝命を待つことを粘り強く説得することを主張した。このことは、長州藩兵の即時退京を求めた会津藩との対立を深めることになった。その後、緊張が高まるにつれ強硬論に転じ、慶喜は強力な軍事力を有する会津藩・薩摩藩などに接近を図る。慶喜への不信感の強かった両藩からも、6月下旬には支持を取り付ける。そして、7月18日、朝議を自分の思う方向に導き、天皇から直々に長州藩追討の勅命を下される。
翌7月19日、長州藩兵が会津藩兵の警固する蛤御門に向けて発砲したことで戦闘が始まった。慶喜の獅子奮迅の活躍をみせる。御所の外では戦闘を指揮し、手薄なところへは直属の兵力を投入するなど、細かな手を打つ。御所の内では公卿の動揺を抑え、長州シンパの策動を防ぐ。戦況によって、天皇を移そうという議論が出ることは間違いなく、ドサクサで長州に奪い取られては万事休すである。守護職松平容保を天皇の近くに残してあるのだが、病中のことで、十分な働きは期待できない。はたして講和論が出、立退論が出た。負けはしない、もうすぐ終わるからと、いくら説得しても駄目である。とうとう慶喜は、戦闘を早く終わらせるための手段として、長州勢が入り込んでいる公卿屋敷に火をかけた。長州系尊攘激派は壊滅し、久坂玄瑞や真木和泉など、激派全盛期を代表するスターたちは、このとき死んだ。慶喜の生涯でただ一度だけの実践指揮は成功した。ただし、この時の火災(「どんどん焼け」)で京の町の三分の二が消失してしまったが。
『甲子兵燹図』(かっしへいせんず)「どんどん焼け」の発端から市中炎上、鎮火、復興に至る過程を、罹災した庶民の視点から描いた絵巻物。進軍する長州兵と避難する京都の市民。
『甲子兵燹図』三条大橋を鴨川東岸へ非難する人々
『甲子兵燹図』銃弾が飛び交うなか逃げ去る庶民
『甲子兵燹図』東山から見渡した燃え盛る京の町
『甲子兵燹図』洛中を離れ、郊外へ向かう人々
『甲子兵燹図』幕府による、罹災者救済のための御救米(おすくいまい)の施行
幕府方(会津藩兵)を砲撃・銃撃する長州軍(『蛤御門合戦図屏風』)
長州軍に砲撃・銃撃する会津藩兵(『蛤御門合戦図屏風』)
幕府方と長州軍の戦闘(『蛤御門合戦図屏風』)
乾御門から蛤御門へと急ぎ向かう薩摩藩兵(『蛤御門合戦図屏風』)
「蛤御門」
「蛤御門」の門柱に残る弾痕
久坂玄瑞
「桂小五郎像」 京都市・河原町御池上ル。ここに長州藩邸があった。
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