「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」23 15代将軍徳川慶喜③王政復古のクーデター後
「王政復古のクーデター」は慶喜の知らないところで行われたわけではない。慶喜は、クーデターの3日前(12月6日)に越前藩(松平春嶽)からクーデター計画を知らされていた。だから、慶喜はクーデターをつぶそうと思えば潰せた。摂政の二条斉敬や会津藩に通知すれば、いとも簡単にクーデターを阻止することはできたのだ。では、なぜ慶喜はそうした行動に出なかったのか?そうした行動に出れば、内乱が発生し、彼が最も恐れた外国勢力による国政への介入が生じると判断したためだろう。また、クーデターが成功しても、その後に成立する新政府内で、自分は要職に就けるとの見通しもあったようだ。
実際、クーデター後の京都の政治状況は慶喜に有利になりつつあった。クーデター後に成立した王政復古政府においては、クーデターに参加した5藩のうち4藩(土佐・越前・尾張・広島)と薩摩側との対立がすぐに顕在化し、しだいに前者が後者を圧倒していく。このことを王政復古政府内で大議論が展開された「辞官納地問題」について見てみる。
慶喜が朝廷から与えられていた「内大臣」は、将軍のみが与えられるものであった。また、800万石におよぶといわれた徳川家の領地は、誰の眼から見ても巨大な所領だった。したがって、新政府の発足にあたって、大政奉還によって藩侯の列に降下した徳川家の当主である慶喜および徳川家を、それにふさわしい位置に据えることは、避けて通れない問題だった。また、成立したばかりで、固有の財産(土地と人民)を全く有していなかった新政府のこれから先のことを考えると、この問題は、他の問題に先がけて、真っ先に検討されねばならなかった。
この問題で、旧幕府側に最も厳しい要求を突き付けたのが薩摩の大久保らで、彼らは慶喜に内大臣を辞すことを求め、かつ新政府が必要とする費用は徳川家に領地を返上させて、そこからの収入で賄おうとした。しかし、この要求に対して、徳川家だけに犠牲を強いるのは不公平だとの反発が生じる。それは長州藩内からも起こってくる。結局、新政府が必要とする費用は、全封建領主から支弁させることで妥結をみる。そして、大久保らが妥協に転じた結果、旧幕府側との交渉は、松平春嶽と徳川慶勝に全面的に任されることになり、ここに慶喜の議定職への就任がほぼ確定的になる。
ところで慶喜は、クーデターから3日後の12月12日、クーデターに激怒した旧幕臣や容保・定敬以下の会津・桑名両藩関係者らを引き連れて大坂に下った。この慶喜の冷静な対応は、彼がクーデター計画を事前に知っていたからこそなしえた。そしてこの下坂は大きなプラスの影響をもたらした。これによって、京都にいた大久保や西郷らは、会津や桑名といった、彼らが新政にとって障害となるとみなした守旧勢力を兵力でもって打倒する機会を失わせたからである。さらに慶喜は12月16日、大坂城でパークスやロッシュ(大坂開市・兵庫開港は12月7日【1868年1月1日】に実施され、駐日公使たちはみな大坂に来ていた)を引見し、日本国の主権者は自分だと宣言し、受け入れられる。これに対し京都では、こちらが日本政府だとの宣言を出そうとした。しかし「朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり」と始まる文案に春嶽や山内容堂が副署を拒否したため無効に終わる。12月24日、朝議で、慶喜を議定職とすることが決定され、翌25日に春嶽と慶勝が下坂して、慶喜を「説諭」することになる。両者は26日、大坂に到着。春嶽は大坂城に入り、老中の板倉や慶喜との話し合いで、慶喜の近いうちの上洛が決定をみる。
ところが、こうした慶喜にとって有利な状況は、思ってもみなかった事件の突発で一変する。12月25日に発生した薩摩藩江戸藩邸焼き討ち事件である。この情報が大目付滝川具挙(ともたか)によって12月晦日(30日)に大坂に伝えられると、事態は一気に討薩に向かって動き出す。ただし、旧幕府首脳が戦争に向けて一致団結しえたわけではなかった。天皇の目前での戦争を嫌った慶喜は、薩摩藩の打倒を強く願ったものの、京都での戦争自体に踏み切れなかった。
国輝「薩摩屋敷焼撃之図」
薩摩藩の高輪藩邸
小御所会議 慶応3年12月9日、王政復古の大号令が出た日の夜、慶喜の処分について激論になった
徳川慶喜 ナポレオン3世から送られたフランス軍服姿
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