2019.11.12 13:32「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」10 第二次ウィーン包囲(1) 西欧世界では、16世紀以来、急速な技術革新が進行し、従来よりはるかに強力な国家が成立していった。オスマン帝国では、これに匹敵する技術革新は見られず、17世紀を通じて両者の力関係は西欧優位へと徐々に逆転していった。この力関係の変化の表れのひとつは、1683年の第二次ウィーン包囲の...
2019.11.08 01:11「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」9 スレイマン大帝の死から第二次ウィーン包囲 1566年のスレイマン大帝の没後、1571年にはヴェネツィア領だったキプロス島を征服、同年のレパント沖での敗戦(スペイン、ローマ教皇、ヴェネツィアの連合艦隊に敗れる)をものともせず(オスマン帝国は翌年には海軍を再建)に、1574年にはチュニジアを支配下に組み入れて北アフリカのほ...
2019.11.07 02:36「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」8 壮麗王スレイマン大帝(3)死 ウィーンの征服こそならなかったが、ハンガリー王にはオスマン帝国が推すサポヤイが即位。しかし依然としてフェルディナントは全ハンガリーの王位を主張。ウィーン包囲のショックによって口先だけとはいえ足並みをそろえたキリスト教国側の軍事力の総結集を誇示・力説してスレイマンに圧力をかけ、ハ...
2019.11.05 23:55「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」7 壮麗王スレイマン大帝(2)第1回ウィーン包囲② スレイマンはウィーン到着に先立ち、イスラム法にのっとって降伏を勧告したが、当然ながら拒否された。そこで、到着と同時に包囲を開始。包囲軍は直ちに攻撃を開始したが、ウィーンの守りは堅かった。オスマン軍の到着が遅れたことがウィーンに幸いしていた。城壁の補修は十分に行えたし、弾薬、食料...
2019.11.04 23:40「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」6 壮麗王スレイマン大帝(1)第1回ウィーン包囲① スレイマン大帝は、半世紀近い治世の間に、13回の親征を行い、その足跡は西はウィーン、東はイランのタブリーズ、イラクのバグダードに及んだ。しかし彼の関心は、とりわけ西方に向けられていたかに見える。即位の翌年の第1回親征の標的はベオグラード。ドナウ川とサヴァ川の交わるところに位置し...
2019.11.03 22:42「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」5 メフメト2世~スレイマン大帝 メフメット2世が根拠地をイスタンブルに移して以降、オスマン帝国の支配組織の君主専制化と中央集権化は、新首都イスタンブルを中心として急速に進む。火砲を巧妙に用いる近衛歩兵軍団イェニチェリ(征服地のキリスト教徒から徴兵。歩兵であるが鉄砲で武装し、皇帝直属軍として帝国の軍事行動の中心...
2019.11.03 01:12「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」4 コンスタンティノープル陥落② コンスタンティノープル陥落=ビザンツ帝国の滅亡は西欧にとって青天の霹靂だった。すでに老衰の度は著しく、昔日の栄光は影さえもなかったが、コンスタンティノープルが当時の世界で最も名を知られた都であることに変わりはなかった。西欧の人々は、そこへ行けば、自分たちの文明の源泉に出会えると...
2019.11.02 01:10「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」3 コンスタンティノープル陥落① 総勢10万の軍団を率いたメフメト2世は、1453年4月6日からコンスタンティノープルの包囲を開始。迎え撃つビザンツ軍は、ヴェネツィアやジェノヴァからの傭兵・義勇兵をあわせても1万弱に過ぎない。それでも優れた海軍力も手伝って(オスマン海軍は数では勝るものの、まだ未熟だった)、守備...
2019.10.31 05:14「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」2 メフメト2世即位 1444年、メフメト2世は若干12歳で即位。父ムラト2世の退位は、とくに対外関係に大きな影響を及ぼした。ハンガリーが結んだばかりの和平条約を破棄して侵攻を試みる。王位を要求し、ビザンツ帝国の後ろ盾を得て攻撃を仕掛けるものが出てくる。イェニチェリ軍団の騒擾が勃発する。結局、この危...
2019.10.30 11:36「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」1 メフメト2世即位まで 13世紀の末にアナトリア(小アジア)の西北部の一支配者として出発したオスマン侯国の周囲には多くのライバルがひしめいていた。そのなかでオスマン侯国が世界帝国への切符を手にすることができたのは、諸侯国の中で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領にもっとも近いところで成立したため、ビザンツ勢...