「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」5 メフメト2世~スレイマン大帝

 メフメット2世が根拠地をイスタンブルに移して以降、オスマン帝国の支配組織の君主専制化と中央集権化は、新首都イスタンブルを中心として急速に進む。火砲を巧妙に用いる近衛歩兵軍団イェニチェリ(征服地のキリスト教徒から徴兵。歩兵であるが鉄砲で武装し、皇帝直属軍として帝国の軍事行動の中心となって活動)と原初以来の騎兵を二本の柱とするオスマン軍の征服は加速化されていった。コンスタンティノープル陥落後、更にバルカン内部に進撃したメフメト2世は、ハンガリーへの侵攻はならなかったが、1459年にはセルビア、63年にはボスニア、60年までにはギリシア全土が、78年までにはアルバニアがオスマン領となり、62年にはルーマニアも属国となった。こうしてバルカン半島のほぼ全土がオスマン帝国の領土に編入された。一方メフメト2世は、アナトリア東部の諸勢力も平定して西アジアも抑え、さらに黒海北岸に出兵してロシア草原の東西交易ルートを抑え、クリム=ハン国を服属させて黒海は「オスマンの海」と化した。

 そして、メフメト2世の孫でオスマン朝第9代セリム1世の時代には、スンニ派のオスマン帝国にとり脅威となったイランの新興のシーア派王朝サファヴィー朝を1514年に「チャルディラーンの戦い」で大破して東アナトリアに領土を広げる(クルド人の帰属がサファヴィー朝からオスマン帝国へと切り替わった)とともに、さらに南下して、カイロを都としてエジプト、シリアを支配してきたイスラム世界の老大国マムルーク朝(聖地メッカとメディナの管理権を持っていた)を滅ぼして(この勝利によってオスマン帝国は、シリア・エジプトの交易ルートを抑え、東西交易のすべてのルートを抑えることとなった)、その版図を併せ、イスラム世界の辺境国家は、その中枢部をも支配するに至った。そして、イスラムの二大聖都メッカとメディナを手中にしたことにより、イスラムのスンニ派に立脚するイスラム的世界帝国、イスラム世界の「守護者」となったエジプト征服は、バルカンの国として出発したオスマン帝国が「イスラム化」を深めていく、大きな転機となる事件だった。2年1か月に及ぶエジプト遠征を終え、アレクサンドリアからイスタンブルへ凱旋する船には、カイロの主だった商人、職人やウレマー(宗教知識人)など2000名ほどもが乗り組み、長年にわたってイスラム世界の中心都市として機能してきたカイロの、その中核部分がイスタンブルへ移されたのだった。聖地の保護者としての資格を得たこととあわせ、スルタンは名実ともに、正統的イスラムの担い手を自任できるようになったのである。

 セリム1世は、死後、「冷酷王」の異名で畏怖されつつ想起された。敵に対してはもちろん、臣下にも親族にも容赦しない峻烈な統治のためだ。しかし、その一見して苛烈な粛清は、先王時代からの有力者たちを機を見て徐々に排除し、代わって自らの子飼いの臣下を高位に配して権力を固める、その政治的駆け引きの一環だった。セリム1世は、「当代のアレクサンドロス」とも呼ばれた。オスマン帝国のスルタンたちの中で、1年を超える遠征をたびたび繰り返し、帝国の領土を二倍に広げたセリムの軍事的才覚は突出していた。

 しかし、1520年、セリムは8年という短い治世で病死(黒死病)。すでに25歳になっていた息子スレイマンが後を継ぐ。46年に及ぶその治世を通じて、オスマン帝国を文字通りの世界帝国として歴史に輝かせ、ヨーロッパ人にさえ「壮麗王(マグニフィセント)」と呼ばれたスレイマン1世の登場である。彼は皇太子としてのほぼ全期間を、エーゲ海沿岸地方の総督として過ごし、そこで、いわば治世の実地を学んでいた。トルコ語で「立法者(カーヌーニー)」と呼ばれることに象徴されるように、スレイマンは単なる征服者ではなく、帝国の集権化を図り、統治の合理化を果たすべく多くの法典を発布するスルタンである。彼の時代のオスマン帝国は、時代と地域の実情に適合した合理的な法と、それを運用する官僚機構とを整えた中央集権国家になってゆく。

エジプトでのセリム1世

1480年頃のオスマン帝国

セリム1世の征服

「スレイマーン大帝」ウィーン美術史美術館

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