「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」3 コンスタンティノープル陥落①

 総勢10万の軍団を率いたメフメト2世は、1453年4月6日からコンスタンティノープルの包囲を開始。迎え撃つビザンツ軍は、ヴェネツィアやジェノヴァからの傭兵・義勇兵をあわせても1万弱に過ぎない。それでも優れた海軍力も手伝って(オスマン海軍は数では勝るものの、まだ未熟だった)、守備兵はよく守った。メフメットは4月22日には船団の「山越え」という離れ業までやってのける。木製軌道と滑車と膨大な数の牡牛や兵士の力を使ってボスポラス海峡から船団をガラタ地区の丘を越えて金角湾内に滑り込ませたのだ。金角湾西側に入ったオスマン艦隊は、陸上からのオスマン軍の砲撃と呼応して、ビザンツ艦隊を圧迫した。それでもこの町を落とすことはできなかった。しかし、ウルバンの巨砲が威力を発揮し、西の大城壁に大きな損傷を与え始める。包囲を開始して二か月に近づこうとする5月28日夕刻、メフメト2世は最後の総攻撃を命じる。この征服戦の遂行には側近中にも反対者がおり、失敗はすなわち、スルタンの権威失墜になりかねない情勢だった。作戦を陣頭指揮したスルタン・メフメト2世にとっても命運のかかった決戦だった。5月29日の夜明け前、オスマン軍は最後の攻撃を行い、城内へなだれ込んだ。この日をもってビザンツ帝国は滅亡した。

 イスラム法は、戦争によって略奪された異教徒の都市では、聖戦の戦士たちに3日間の略奪の権利を認めている。コンスタンティノープルの陥落直後にも、メフメト2世は自らの意に反しても、略奪を許可せざるを得なかった。しかし、彼は「ローマの皇帝」の都をできる限り無傷で手中にしたいと考えていたと言われる。略奪は1日できりあげられたとみるのが妥当ではないか。略奪の対象には人間も含まれる。イスラム法では、戦利品としての異教徒の捕虜は、奴隷として捕獲者の所有に帰する。そのため多くの市民が捕虜となって奴隷に落とされ、その数は5万人に達した。この捕虜についても、メフメトは、スルタンの取り分となったものを丁重に扱い、特にビザンツ貴族たちについては、その身代金を自ら払って彼らの解放を保障したといわれる。

 メフメト2世は、コンスタンティノープルを征服すると、荒廃した町の再建に取り組み、街の復興に努めた。彼はなによりもオスマン帝国の首都として「ローマの都の再興」を夢見ていた。その思いは彼がアヤソフィア・モスク(6世紀に建造されたビザンツ帝国の記念碑的建造物聖ソフィア寺院がモスクに転用された)にたいして行った宗教寄進のさいに作成された寄進文書に色濃くあらわされている。

「・・・彼は偉大なスルタン、よく知り、正しき王にして・・・ローマの帝国の終焉ののちに、神アッラーの言葉を掲げた者である。・・・彼は、これほどまでにアレクサンドロス王の時代を体現している。・・・先達たるアレクサンドロス王の杖を受け継ぐものである。」

 このようにメフメト2世は自らをアレクサンドロス大王やローマの後継者と見なしていた。そもそも彼は、即位以前からアラビア語、ペルシア語とイスラム諸学だけではなく、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語も修得し、ことにギリシアの文献を広く学んでいたことが知られている。アテネとトロイの遺跡を訪れ、称賛の言葉を発した彼を、ある歴史家は「ギリシア崇拝者」とまで記した。自らをアレクサンドロス大王の後継者と意識するメフメト2世は、実際、東西の融合を果たすべく1480年、ローマ征服を目指してイタリア半島最東端の港町オトラントを占領する。

 ところで、コンスタンティノープルは征服後も、オスマン帝国では「コスタンティニーエ」という名称が20世紀にいたるまで用いられ、征服後に「イスタンブル」に改称したという事実はない。研究上、便宜的にオスマン時代以後をイスタンブルと呼ぶことが定着しているだけである。

ファウスト・ゾナーロ「巨大な大砲を携えてコンスタンティノープルに近づくメフメト2世とオスマン帝国軍」

コンスタンティノープルの城壁(修復部分)

ファウスト・ゾナーロ「オスマン艦隊の大移動」

コンスタンティノープル陥落

ファウスト・ゾナーロ「コンスタンティノープルに入城するメフメト2世」

ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン「コンスタンティノープルに入城するメフメト2世」

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