「オスマン帝国の脅威とヨーロッパ」10 第二次ウィーン包囲(1)

 西欧世界では、16世紀以来、急速な技術革新が進行し、従来よりはるかに強力な国家が成立していった。オスマン帝国では、これに匹敵する技術革新は見られず、17世紀を通じて両者の力関係は西欧優位へと徐々に逆転していった。この力関係の変化の表れのひとつは、1683年の第二次ウィーン包囲の完全な失敗であり、1699年のカルロヴィッツ条約によるハンガリー喪失で決定的となった。まず第二次ウィーン包囲について見る。

 オスマン帝国は、16世紀後半から17世紀にかけて、スルタン権力が動揺し宦官、後宮の女性などが政治に介入し(スレイマン大帝時代のヒュッレム、30年にわたって権勢をふるったキョセムなど)混乱が続き、実権は大宰相に握られていた。1656年、大宰相に就任したキョプリュリュ・メフメット・パシャはオスマン帝国の再興に貢献し「キョプリュリュ時代」を始めたが、第二次ウィーン包囲を敢行したのはその女婿カラ・ムスタファ。1672年にポドリア地方を攻略し、オスマン帝国史上最大の版図を築いたのも大宰相就任前のカラ・ムスタファ(海軍提督)である。

 ハンガリーでは、1672年以降、ハプスブルクによるカトリック化強行(神聖ローマ皇帝レオポルト1世は1673年2月27日、ハンガリー国法を停止してヨハン・カスパー・フォン・アンプリンゲンを独裁官に任命。彼は450人のプロテスタント聖職者を追放し、そのうち67人以上をガレー船の徒刑囚にした)に抵抗して、プロテスタント勢力がテケイ・イムレ伯爵の指導下に闘争を行っていた。カラ・ムスタファはこれを支援し、1670年代末にはテケイの軍勢は、ハプスブルク領ハンガリー一帯を占領する勢いを示していた。テケイはイスタンブルにも使者を送って援軍を求め、カラ・ムスタファは、30年戦争で疲弊したオーストリアを攻めるチャンスと考え、遠征の準備を進めた。

 1683年7月、カラ・ムスタファは15万と言われる兵(その中にはテケイの率いるハンガリー軍やワラキア候、モルダヴィア候の兵もいた)を率いてウィーン城下に現れた。ウィーンが包囲されている間、西方でハプスブルク領のオーストリア、スペインいずれにも圧力をかけ続けていたのがフランスのルイ14世。この頃、ハプスブルク家はすでにヨーロッパ諸国にとって、カール5世の時代ほど危険な存在ではなくなっており、ルイ14世にしても、まっすぐにオスマン帝国との同盟に走るわけにはゆかなかった。ルイの領土的野心を満足させるために、当方でオスマン軍がオーストリアを悩ませていればよかったし、またフランスの商業的利益のために、「カピトゥレーション」(通商特権)が失われなければ、それでよかったのだが。

 しかし今回のウィーンは、150年前のウィーンではなかった。なるほど第一次ウィーン包囲のときと同じように皇帝レオポルト1世は首都から逃亡していたが、首都の城壁は十分に強化されていた。また、ブダとウィーンの間にはいくつもの要塞が築かれていた。しかし、オスマン軍はこれらの要塞を迂回するように、一気にウィーまで進出していた。ルイ14世の圧力を感じて、皇帝はオスマン側と和議を結んで西方へ向かおうとしたが、カラ・ムスタファは聞く耳を持たなかった。

1683年ウィーン鳥瞰図

「カラ・ムスタファ」ハンガリー国立美術館

ブダペストの英雄広場にあるテケリ・イムレ像

ピエール・ミニャール「アウグスブルク同盟戦争の頃のルイ14世」ヴェルサイユ宮殿

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