「感染症と人間の物語」7 14世紀黒死病パンデミックと人間(3)ペストの守護聖人①サン・セバスチャン

 今「サン・セバスチャン」と言うと、スペイン・バスク地方にある星付きレストランが密集する世界屈指の美食の街サン・セバスチャンを思い浮かべる人が多いことだろう。この街の旧市街は、通りの右も左もバルだらけ。一皿2.5~4€(¥300~500)の小皿料理ピンチョスがぎっしり並べられていて(しかも日本人好みのエビやカニなどの甲殻類が豊富!)、リーズナブルに飲み食いを満喫できる。

 この町の名前は、この地にサン・セバスチャン修道院があったことに由来するが、サン・セバスチャン(ラテン語:聖セバスティアヌス)とはどんな人物だったのか?中世から非常に信仰を集めた聖人で、それは特にペストの守護聖人としてだった。そして、それは彼の殉教に関わる。聖書に記述はないが、ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』(13世紀のジェノヴァの大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが書いたヨーロッパで最も広く読まれたキリスト教の聖人伝集成)にこんな記述がある。

「セバスティアヌスは、すぐれたキリスト教徒であった。・・・ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの量皇帝は、彼をたいへんかわいがり、彼に第一歩兵隊の指揮権をあたえ、つねに皇帝の眼前から離れないようにと命じた。しかし、セバスティアヌスが軍服を着たのは、キリスト教徒たちが拷苦をくわえられてひるみそうになったときに彼らに言葉をかけて元気づけてやるためにほかならなかった。」

 そして彼はその通りに実行した。激怒した皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年―305年 帝国を東西に分け正帝・副帝をおく四分割統治を実施するなど、専制国家体制の確立に尽力、在位の末年にはキリスト教大迫害を行なった)はセバスティアヌスを呼び出す。

「『わしは、ずっとそちをわしの宮殿の腹心のひとりとして遇してきた。それなのに、そちは、ひそかにわしと神々に楯をついていたのか』セバスティアヌスは、答えた。『わたしは、いつも陛下の幸福のためにキリストをうやまい、いつもローマ帝国のために在天の神に祈ってまいりました。』これを聞いて、皇帝ディオクレティアヌスは、彼を野原のまんなかの杭にしばりつけ、兵卒たちに矢を射かけるように命令した。兵卒たちは、大量の矢を射かけた。そのために、彼は、ハリネズミのようになった。兵卒たちは、彼を死んだものとおもって、彼を置いて帰っていった。ところが、その数日後、皇帝の宮殿のまえの階段の上に、彼が元気な姿で立っていた。・・・二人の皇帝は『これは、このあいだ矢で射殺するように命じておいたセバスティアヌスではないか』と言った。セバスティアヌスは、答えた。『あなたがたに直接会って、あなたがたがキリストのしもべたちにくわえた迫害を責めるようにと、主がわたしを死から呼びさまされたのです』そこで、量皇帝は、彼を長いこと棍棒で打たせて、ついに殺してしまった。そして、キリスト教徒たちが彼を殉教者として崇敬することができないように、死体を暗渠に投げ込ませた。」

 では、このように殉教した聖セバスティアヌスがなぜペストの守護聖人になったのか?ペストにかかると股のところに黒い斑点が出来て、この斑点が全身に広がって最後は土気色になって死ぬのだが、それが矢が刺さった後のように見える。そして、聖セバスティアヌスは矢で射抜かれても死ななかったからだ。ペストが流行る14世紀頃から聖セバスティアヌスの画像は爆発的に増えた。民衆版画が、一種のお守りの札としてたくさん作られ家の中に貼られた。ルネサンス期にも多く描かれ、特にアンドレア・マンテーニャは多くの矢を射られた聖セバスティアヌスを描き(ウィーン美術史美術館やルーヴル美術館の作品)ペストの守護聖人セバスティアヌスは、たくさんの矢に射抜かれても死ななかったということを強調している。しかし、教会の内部にこういう裸体が置かれているのは、ややエロチック過ぎるということになる。矢の数が減り、多くの画家が若く美しい肉体を持つ聖セバスティアヌスを描くようになり、フラ・バルトロメオの描いた聖セバスティアヌスの絵の前で、女性の信者が集まって大騒ぎをしたため、教会から絵が撤去されるという事件まで起きる。そこで16世紀後半、聖セバスティアヌスはあんまりエロチックに描いてはいけないというお触れが出る。しかし、17世紀になると再びエロチックな姿で描かれるようになり、バロック期にはグイド・レーニのように「殉教の愉悦」、つまり殉教で死ぬことは天国に行くこと意味することから、その顔も苦痛に歪んでいるというよりも、うっとりとした法悦状態で天を見上げている姿で表現されるようになる。さらには、その肉体が強調され、19世紀の世紀末ぐらいにはなんと「同性愛の守護聖人」になる。三島由紀夫は『仮面の告白』のなかで、「私」は13歳の時、グイド・レーニの「聖セバスチャン」の絵に強く惹きつけられ、初めての「ejaclatio」(射精)を体験し、それが「悪習」の始まりだった、と記している。

サン・セバスティアン(スペイン・バスク地方)市街地とラ・コンチャ湾のパノラマビュー

ジョヴァンニ・デル・ビオンド「聖セバスティアヌスの殉教」1380頃

「聖セバスティアヌスの殉教」1470頃

アンドレア・マンテーニャ「聖セバスティアヌスの殉教」1456年 ウィーン美術史美術館

アンドレア・マンテーニャ「聖セバスティアヌスの殉教」1480年頃 ルーヴル美術館

アントニオ・ポッライウォーロ「聖セバスティアヌスの殉教」1470年代 ロンドン ナショナルギャラリー

ソドマ「聖セバスティアヌス」1525年 ウフィツィ美術館

グイド・レーニ「聖セバスティアヌスの殉教」1615年頃 ジョノヴァ パラッツォ・ロッコ

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス」1617年頃 ルーヴル美術館

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