「感染症と人間の物語」6 14世紀黒死病パンデミックと人間(2)ユダヤ人虐殺(ポグロム)

 医学が発達していなかった14世紀当時、ペストの原因として「大気汚染説」、「死神説」、「魔女説」、「ネズミ説」などとともに唱えられたのが「ユダヤ人説」。「ユダヤ人が井戸に毒を盛ったから死んだ」などと言われた。背景にあったのは、ユダヤ人にペストの犠牲者が少なかったこと。それは、中世後期のユダヤ人は裕福だったからペストを予防でき、ユダヤ人の戒律である食事規制が健康を保つ一因となったからだったのだが。

 ユダヤ人に対する迫害は、11世紀末に始まる十字軍時代以降に始まっていた。キリスト教徒は「利子をとってはいけない」という教えに縛られていたのに対して、ユダヤ人は「金貸し」(金融業)が許されていたことから、商業の復活に伴って豊かになっていった。それが貧しいキリスト教徒の恨みをかうこととなる。キリスト教徒はユダヤ教徒がイエスを救世主として認めないこと、イエスを裏切ったのがユダヤ人だったことなどを口実に、しばしば激しい迫害、時として集団的な虐殺(ポグロム)を行うようになっていった。またスペインやイギリス、フランスでは国外追放にされたり、一定の居住地(ゲットー)への強制移住を強いられることとなった。

 黒死病期のユダヤ人大虐殺の最初の記録としては、1348年9月、スイスのジュネーヴに起こった例が残されているが、この町に発火した悲劇はたちまち全ヨーロッパへと拡大する。アルザス地方の有力都市シュトラスブルク(現在はフランス領でストラスブール)でも、1349年初頭からユダヤ人が井戸に毒を入れて回っているという噂が聞こえ始めると、市民たちがユダヤ人への迫害を唱えるようになり、少なからずユダヤ人の脱出が始まっていた。主導した市民たちにはユダヤ人からの借入があったため、借金の帳消しを狙ったものと見られている。これに対し、市政府はユダヤ人居住区に護衛の兵を配置して市民の暴発を防ぐ措置をとる。市民たちはシュワーバー市長率いる市政府のユダヤ人保護政策に強い不満を持った。彼らはユダヤ人への裁判とシュワーバー市長解任を求めた運動を展開するようになっていく。市長は反対派の一掃に乗り出しす。しかし2月10日、市長による逮捕の網を逃れた反市長派の一人が市民を扇動しクーデターを敢行して、体制の転覆に成功。2月13日、クーデター派は新たな議会を開催して、前市長ペーター・シュワーバーの全財産没収と市からの永久追放を決定し、即日実施される。最早、シュトラスブルク市のユダヤ人たちを守るものは何もなくなった。そして、新政権の初仕事は自らを支持する「民意」に応えることだった。虐殺は、1349年2月14日、奇しくも聖バレンタインデーに始まった。

「かくして、つぎのサバトの日に有力参事会員らよってブルスカ上の掘っ立て小屋に、あたかも誘拐でもされるかのように連行されたユダヤ人たちは、彼らの墓地となる、焚殺用に準備された小屋に連れ去られ、その道すがら民衆に衣服をすっかり剥ぎ取られた。そして、そのなかには多額の金品が発見された。ところで、洗礼をうけることを選んだ少数のものたちは助かり、それより多くの容姿の端麗な女たちは心ならずも助けられ、助命された多くの少年が強制的に洗礼を施された。その他の多くのものたちが焚殺され、火から飛び出した多くのものたちも殺害された。」(フリッチェ・クローゼナー「シュトラスブルク年代記」)

 この日、シュトラスブルク市に住む1884人のユダヤ人のうち約900人が殺害されたという。マインツでも1万2千人以上のユダヤ人が殺害され、自殺した。このような、キリスト教の名のもとで、正義を振りかざして行われるこうした蛮行を、教皇庁は手をこまねいて眺めていただけだったのか?そうではない。時の教皇クレメンス6世は、二度にわたって回勅を発布し、ペスト流行に関してユダヤ人が無罪であることを訴え続けた。しかし、その威令は、回勅をもってしてもヨーロッパ全土に遍く行われるということは不可能だった。教皇自体の権威が失墜していたからだ。「教皇のバビロン捕囚」である。1309年、フランス王フィリップ4世は教皇クレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。このことを旧約聖書に出てくる「ユダヤ人のバビロン捕囚」になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」と呼ぶ。これは次に起こる「教会大分裂」(1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂した状態の事)と共に、ローマ教皇権の衰退を示すものであった。

ところで、クレメンス6世は1349年10月20日 教皇教書で「鞭打苦行者」を地方の司教が取り締まるよう命じた。

「鞭打苦行者たちは信仰を口実に,ユダヤ人の血 を流している……そして時にはキリスト教徒の血も……。大司教,付属司教…に命ずる。あの一団とは距離を置け,決して関わりを持つな。」

 なぜか?「鞭打苦行者」たちは、一つの町に入ると、まず粛清と称してユダヤ人狩りを行い、ゲットーを焼き打ちにした。キリスト教の正義を標榜するあまり、ユダヤ人迫害の先頭に立ったからである。

エミール・シュヴァイツァー作「シュトラスブルクの虐殺 1349年」

1353年頃 ユダヤ人の焚刑

ペストのスケープゴート ユダヤ人の焚刑 15世紀の木版画

エミール・シュヴァイツァー作「シュトラスブルクの虐殺 1349年」

(現在)ストラスブール

アンリ・セルール「クレメンス6世」アヴィニョン教皇庁

アヴィニョン教皇庁

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