「感染症と人間の物語」5 14世紀黒死病パンデミックと人間(1)「鞭打ち苦行団」

 1894年、100年近く姿を消していたペストが中国南部で突如姿を現し、やがて香港で大流行を引き起こした。町中が混乱と恐怖に包まれるなか、「過去のような惨劇を、なんとしても食い止めなければ」と、ペストの原因を突き止めるべく、中世にはなかった細菌学を武器に挑んでいった日本人がいた。北里柴三郎。北里ら一行は6月12日に香港に到着するや病死した患者の解剖に着手。そのわずか2日後の6月14日、ついにペスト菌が発見された(この41日後の7月25日には日清戦争勃発)。ペスト患者の家からは、ネズミの死骸が大量に発見された。そこで死にかかっているネズミを捕獲し採血して調べると、ペスト患者と同様に血液中からペスト菌が発見された。ネズミが伝染に関わっている可能性がある。このことを伝えられた香港政庁は、ネズミの駆除を中心に、家屋や土壌の消毒などを実施。香港のペストは急速に終息へと向かっていった。

 しかし、14世紀当時、医者たちは,ペスト菌に対してもその危険性についても何も知らない。それでも伝染という現象を目の当たりにして、「隔離」という概念が少しずつ制度化されていく。ヴェネツィアでは、ペストが流行する地域から渡来する船の入港を差し止める措置をとる(「検疫」は英語で「quarantine」といい、これはイタリアのヴェネツィア地方の方言「quarantena=quaranta giorni」が語源だが、その意味は「40日間」。14世紀の黒死病大流行の際、この病はオリエント[東方]から来た船が広めているとして、当時のヴェネツィア共和国政府は、船内に感染者がいないことを確認するため疑わしい船をヴェネツィア近くの港外に強制的に停泊させる法律を作ったが、その期間を「40日間」としたことに由来。)。またミラノでは、ペスト患者を出した家を閉鎖して立ち入り禁止にしたり、病人を郊外に運び出し、街なかには置かないという決定を下したりした。

では、まわりの人々が次々に罹患し死んでいく光景を目の当たりにして、人々はどうしたか?『デカメロン』の登場人物たちのように郊外へ逃げることと神に救いを求めること、それしかできなかった。しかし流行は収まる気配を見せない。このような災厄に直面して、人々は二つの極端な行動様式をとったとされる。一つは、不可避の死を前に、やり残したあらゆるこの世の快楽と放銃とに身を委ねようとする態度。

「マッテオ・ヴィラーニ Matteo Villani によれば,多くの人々が『疫病発生以前には決してしなかったような,恥知らずな振る舞いをしたり,奔放な生活を送っていた。ひとびとは何もしないということに没頭し,無制限に飲食にふけり,宴会と酒場を好み,楽しいこと,ぜいたくな食事や賭博を重んじた。ためらいなく贅沢に打ち込み,目立つ衣装を身につけ,異常な流行に熱中した。ふしだらに振る舞い,次から次へと新たな刺激にも順応した……』とある」(クラウス・ベルクドルト「ヨーロッパの黒死病―大ペストと中世ヨーロッパの終焉」国文社)

 それは、刹那の快楽によって死の恐怖を忘れようとするものだったが、それだけではなかった。地上の生に関する教会の聖なる教えや,天上の神に対する畏敬によっては最早償うことのできないほどの累々とした孤独な死体の数々は,神への不信と神(教会)の与えた倫理への挑戦を生み出したのだ。もう一つは、ペスト流行を神の怒りの顕現と見なし、人間が重ねてきた罪に対する懲罰として理解し、厳しい贖罪行為に身をまかせようとする態度。その一つが「鞭打ち苦行団(Flagellant)」。本来「鞭打ち」は規則違反に対する懲罰だったが、のちにこのことから逆に,苦行と改悔の手段として採用されるようにもなった。13世紀イタリアにおいて,世界終末の接近を警告し,道徳的退廃を非難して鞭打ち苦行を行ったものが,最初の集団的な事例である。先導するのは十字架と松明を掲げた一人の修道士。上半身は裸体になり、顔はヴェールで隠し、足首まで届く長いスカートのごときものを身にまとい、血を流すまで露出された肌を自分で鞭で打った。告白の祈りを声高に唱え、教会を見つけるや必ず祭壇の前にひれ伏した。この運動は、次第に半封建体制、反教会運動という政治的な方向へ組織化される傾向を帯びるようになり、教会は警戒を強め、教皇は1261年、行進の禁止を呼びかけ、この熱狂的な運動は終息。それが、黒死病の勃発とともにふたたび激しい活力を取り戻した。

バーント・ノケ「死の舞踏」15世紀 タリン(エストニア)、聖ニコラス教会

1348年 鞭打ち苦行者の行進

鞭打ち苦行者

14世紀ヨーロッパにおけるペストの伝播

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