「万の心を持つ男」シェイクスピア2『ハムレット』②「復讐するは我にあり」

 ハムレットが死んだ父の亡霊から復讐を命じられながら、復讐をためらう第一の原因は、そもそも亡霊が本物なのか、それともその正体は悪魔なのか、という疑問にある。そして、ここにはハムレットの信仰問題、当時のイングランドの宗教問題が関わっていると思われる。

 エリザベス1世の父ヘンリー8世は1534年、「国王至上法」を制定し国王を「イングランド教会の唯一の地上における最高の首長」と規定。つまりローマ教皇の権威を否定し、国ごとカトリックから離脱する。それは決して教義上の理由からではない。ローマ教皇に離婚の許可を求めたが認められなかったから、つまり離婚したかったから国の宗教を変えてしまったのだ。しかし、出発点はそうであっても、ローマ・カトリックから分離・独立したことで、イングランドでは急速にプロテスタント勢力が台頭。目まぐるしく状況は変わる。ヘンリー8世の跡を継いだ幼いエドワード6世【在位:1547~53】はイングランド国教会のプロテスタント化を進めたが、生来の病弱から16歳で早世。次の姉のメアリ1世【在位:1553~58】は熱烈なカトリックの信者で、1554年、スペイン王フェリペ2世と結婚。カトリック復活政策を推進し、それまで教会のプロテスタント化を進めてきた聖職者300人を捕らえて焚刑にするということまでやった。真っ赤なトマトジュースとウォッカのカクテルに〝ブラディ・メアリ〟(「血なまぐさいメアリ」)という名前が付いているが、それは彼女が行ったプロテスタント大虐殺に由来する。しかし1558年、メアリの異母妹エリザベス1世【在位:1558~1603】が即位すると、再びプロテスタントに戻り、今度は逆に厳しいカトリック狩りの時代になる。シェイクスピアが生きたのは1564年から1616年。活躍したのは、エリザベス1世の治世から次のジェイムズ1世【在位:1603~25】にかけての、広義のエリザベス朝時代。シェイクスピア作品にはこのような複雑な当時のイングランドの宗教状況が反映している。

 そして、「亡霊」という存在をカトリックは認めるが、プロテスタントは認めない。プロテスタントからすれば、死者の亡霊など悪魔が見せる幻影にすぎない。だから、プロテスタントの総本山ウィッテンバーグ大学で学んだハムレットは悩むのだ。『ハムレット』の登場人物で最もプロテスタント的なのはウィッテンバーグ大学でのハムレットの学友ホレイシオ。彼は、亡霊に会いに行こうとするハムレットに、「殿下の正気を奪い去り、狂気へ引きずり込もうというのかもしれません」と警告するのも信仰上の問題からだろう。

 ところで、ハムレットが死んだ父の亡霊から復讐を命じられながら、復讐をためらう原因は、キリスト教の根本にもかかわっていると思う。「復讐するは我にあり」という言葉がある。日本人の年配者だと、にこやかに犯罪を重ねた稀代の殺人鬼、榎津巌の犯行の軌跡と人間像を描いた今村昌平監督(原作は佐木隆三の直木賞受賞作)の映画を思い浮かべる人が多いだろうが、もともとは聖書に出てくる神の言葉。つまり、「我」とは「神」。『新約聖書』「ローマの信徒への手紙」(第12章第17~19節)にこう書かれている。

「誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。」

 誤解されがちだが、キリスト教は決して「復讐」、「報復」を認めないわけではない。それは、人間が行うものではなく、神が行うものだと言っているのだ。次の聖書の有名な一節も、キリスト教をお人好しの現実離れした愛の宗教と揶揄する根拠にされがちだが、背後には神の正当な裁き(復讐、報復も含めて)があることを忘れてはならない。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と言われている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第5章38節~39節)

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。」(『新約聖書』「ルカによる福音書」第6章27節~28節)

 ホレイシオほどではないがプロテスタント的要素を持つハムレットは悩む。自分のような人間が、熱情にまかせて、王を殺してしまっていいのかどうか。

ジョン・フォックス『殉教者の書』(1563年)より  プロテスタントの処刑

ハンス・ホルバイン「ヘンリー8世」

アントニス・モール「メアリ1世」プラド美術館

「戴冠式のエリザベス」ナショナル・ポートレート・ギャラリー

映画「復讐するは我にあり」監督:今村昌平  主演:緒形拳

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