「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」12 ウィーン①

 モーツァルトの自立決断の背後には、もちろん「ウィーンでやっていける」という自信があった。

「断言しますが、当地は素晴らしい土地ですし、それにぼくの仕事にとってはこの世で最上の場所です。・・・ぼくも当地が好きだし、もちろんそれを力の限り利用してみます。」(1781年4月4日付父宛手紙)

「ぼくには、幸運がこの地でぼくを迎えようとしているように思われます。ぼくはどうしてもここに留まらなければならないような気がします。」(1781年5月26日付父宛手紙)

自由な音楽家となったモーツァルトは、大いに張り切って仕事に打ち込む。作曲、相次ぐ演奏会、ピアノ教師としての活動、楽譜の出版などに多忙な毎日が過ぎてゆく。やがて待望のオペラの仕事も舞い込んだ。1781年4月なかば、ゴットリープ・シュテファニー(ブルク劇場の俳優。当時ブルク劇場の監督を務めていた)から台本を書いてもらう約束を取り付けていたモーツァルトは、7月末台本を受け取る。

「台本は実にいいものです。主題はトルコ風で、『ベルモントとコンスタンツェ、または後宮からの誘拐』といいます。・・・時間はぎりぎり、その通りです。9月半ばにはもう上演されることになっていますから(注:実際は遅れて翌年7月16日にブルク劇場で初演された)。しかし、これが上演される頃にこれに関連する事情や、要するに、他のすべてのもくろみが、ぼくの気持ちを朗らかにしてくれるので、ぼくは最大の情熱をもって机にとびつき、最大の喜びをもってそこに座っています。」(1781年8月1日付父宛手紙)                                                                                                                                                                                                       

 これほど熱心に仕事にとりかかった理由をモーツァルトは同じ手紙のなかでこう記している。

「ロシア大公(注:のちの皇帝パーヴェル1世)がやがて当地にいらっしゃるのです。それでシュテファニーが、ぼくに、できることなら、こんな短い期間にオペラを書いてくれないかと頼んだのです。というのは、皇帝(注:ヨーゼフ2世)とローゼンベルク伯爵(注:オーストリアの外交官。ウィーンの劇場総監督)がもうすぐお帰りになり、なにか新しい出し物は準備してないかとお訊ねになるでしょうから」

 あまりに短い準備期間だったが、驚くほどの速さで作曲は勧められた。ところがロシア大公のウィーン訪問が、9月から11月に延期。おかげで少し余裕ができたと思ったら、今度は歓迎行事にグルックの旧作オペラが上演されることになり、モーツァルトの新作は別の機会に上演される運びとなる。大急ぎで書き上げる必要がなくなったモーツァルトは、台本を吟味し、念入りに曲を書き直す。その創作過程を父親に書いた手紙には、モーツァルトのオペラの表現美学、作曲の原理・創作の理論が述べられている(この作品以外、モーツァルトが作曲の原理・創作の理論を言葉によって語っている作品はない)。

「情緒と言うものは、それが烈しかろうとそうでなかろうと、決して嫌悪を催させるほどまで表現すべきではないし、それに音楽は、どんなに恐ろしい模様を描くにしても、耳を損なうようであってはならず、そうじゃなくて、満足を与え、したがっていつも音楽に留まっていなければなりません。そこでヘ長調(アリアの調です)に関係のない調はとらないで、それに近親な調、しかし最も近いニ短調ではなく、もうすこし遠い調、つまりイ短調を選んだのです。」(1781年9月26日付父宛手紙)

「オペラでは詩は絶対に音楽に従順な娘でなくてはなりません。――いったいなぜイタリアの喜歌劇がどこでも評判になっているのでしょうか?――台本については、まったくみじめなものなのに!――パリでさえそうでした。――これはぼく自身が目撃したことです。――それというのも、音楽がそこではまったくの支配者だからです。――音楽でもってすべてを忘れてしまうのです。作品の筋が立派な出来なら、オペラはたしかにもっと受けます。でも歌詞はもっぱら音楽のためだけに書かれるもので、あっちこっちでみじめな韻に向くために書かれるものじゃありません。」(1781年10月13日付父宛手紙)

 初演が行われたのは1782年7月16日。なぜそこまで延びたのか?

(モーツァルト「後宮からの誘拐」)

バルバラ・クラフト「モーツァルト」

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