「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」11 モーツァルトとコロレド大司教③

 己の才能と努力によって人生を切り開いていこうとする人間にとって、身分と家柄によって決定づけられる社会がもたらす苦痛、ストレスはどれほど大きかったことか。ボーマルシェが『フィガロの結婚』の中でフィガロに吐かせた次のセリフはモーツァルトがコロレド大司教に抱いていた気持ちそのものだっただろう。

「伯爵さまよ、・・・あんたは自分が大貴族だから、生まれつきの才能もたっぷりあると思ってる!・・・爵位、財産、地位、いくつもの肩書き、全部揃って威張りくさってるんだ!でも、これだけのおいしい結果を手に入れるのに、あんたはいったい何をしたんです?生まれるという骨を折っただけ、後は何もしてないじゃないか。それに、男としても平々凡々!それに引き換え、このおれは、えい、糞っ!名もない大衆に埋もれて、ただ生きてゆくだけでも、この百年来スペイン全土を治める以上の博学ぶりと計算の妙を発揮しなくちゃならなかったんだ。」

 モーツァルトを「求道者」と言うと一般的な彼のイメージからは外れるかもしれない。しかし間違いなく彼は「求道者」だったと思う。自分の可能性を追求し続けた。しかし、生活を楽しむ「エピキュリアン」でもあった。飲んで、歌って、踊ることが大好きだった。それは、コロレド大司教や父親の束縛から自己を解放するためにモーツァルトには不可欠だった。そしてすべてを自分の音楽表現に生かしていった。「フィガロの結婚」も「ドン・ジョヴァンニ」もモーツァルトの生活、人生すべてが反映された作品だ。

 コロレド大司教との最終的決裂にもどろう。やがて二人はおおっぴらに口論するようになる。

「ぼくに面と向かって無礼きわまる、失敬千万なことを言いました。・・・あれはぼくを『小僧』、『ふしだらな奴』と呼び、『行ってしまえ』と言いました。」(1781年5月9日付父宛手紙)

 特にモーツァルトがこたえたとされるのは「Fexフェックス」という言葉だったようだ。「馬鹿」と訳されるが、最大の蔑称で、ザルツブルクの施設に収容されている精神病の患者が、当時こう呼ばれていた。

「ぼくがあの人(コロレド大司教)の部屋に入っていくと・・・いきなりこう言われたのです。『ところで若僧、いつ発つのか?』ぼく、『今夜発つことにしていましたが、座席がもう満員ですので』すると、息もつかずに言い立てました。お前ほどだらしない若僧は見たこともない、お前のような勤めっぷりの悪い人間は一人もいない、今日のうちに発つならいいが、国元へ手紙を書いて、給料を差し止める、というのです。かんかんになってまくしたてるのですから、口をはさむこともできません。ぼくは平然として聞いていました。ぼくの給料が500フローリン(注:実際は450フローリン)だなどと、面と向かって嘘をつき、ぼくのことをならず者、馬鹿(フェックス)、と言うのです。ああ、とても全部は書きたくありません。とうとう、ぼくの血が煮えたぎってきたので、言ってやりました。『では、猊下は私がお気に召さないのでしょうか?』『なんだと、貴様はわしを脅す気か?馬鹿め!馬鹿め!出て行け、よいか、貴様のような見下げはてた小僧には、もう用はないぞ』とうとう、ぼくも言いました。『こちらもあなたには、もう用がありません』『さあ、出て行け』そしてぼくは出しなに『これで決まりました。明日、文書で届けます』・・・ぼくがこれを言ったのが、早すぎるよりは、むしろ遅すぎたのではないでしょうか?・・・ぼくの名誉は、ぼくにとって何ものにも勝るものです。」(同上)

 大司教から仲介役を任されていたアルコ伯爵(大司教の側近)にもモーツァルトはこう言い放つ。

「『今度の事件がウィーンで起こった原因は、私ではなく、大司教にあるのです。大司教が才能のある人間との付き合い方を心得ていたら、起こらなかったことです。伯爵、私はこの世にまたとないような気の好い人間なのです、相手がそう扱ってくれさえしたら。・・・私は相手の出方によって、同じ出方をしてやるのです。もしだれかが私を侮り、ないがしろにしていると分かれば、私はヒヒのように高慢になれます』」(1781年6月2日付父宛手紙)

 6月8日、アルコ伯爵はモーツァルトを「戸口から放り出し、お尻に足蹴をくれた」(6月13日付父宛手紙)。

フィガロの結婚

「コロレド大司教」ザルツブルク美術館

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