「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」13 ウィーン②

 1782年の春には作品は完成に近づいていた。それにもかかわらず、上演予定が決まらなかったのはイタリア派の妨害が原因だったようだ。オペラシーズンも終わってしまうが、7月16日に初演される。皇帝ヨーゼフ2世の命令による、特別の上演だった。初演は大成功。ここでも妨害工作があって、初日と二日は混乱したらしいが、それでも聴衆は歓迎した。結局、『後宮からの逃走』はモーツァルトのオペラの中で、最も興行的成功を収めたオペラとなった。では、ドイツ・オペラを作ろうという皇帝のもくろみは成功したのだろうか?この後モーツァルトは新たなドイツ物を作曲したのか?そうではなかった。ジングシュピール(ドイツのセリフ入りのオペラ)はドイツ・オペラとして認知されないうちに廃れ、ヨーゼフ2世がドイツ国民劇場として運営させることにしていたブルク劇場もイタリア・オペラ中心になってしまう。『後宮からの逃走』の上演のあと、ウィーンのオペラ界は急速にイタリア派の時代に移ったのだ。それは、イタリア語オペラの修業を十分に積んでいたモーツァルトにとっては望むところであった。モーツァルトはイタリア語オペラ作曲の希望を1782年の暮れにローゼンベルク伯爵(ウィーンの劇場総監督)に伝えていたし、また百冊を超える台本を読んで、その準備も怠らなかった。

「今、当地ではイタリア風のオペラ・ブッファがまた始まって、大変な人気を呼んでいます。私は軽く百冊、いやそれ以上の台本に目を通しましたが、一つとして満足できるものが見当たりませんでした。少なくとも、あちこち大きく直さなければならないでしょう。」((1783年5月7日付父宛手紙))

 またこの手紙では、やがてコンビを組むことになるダ・ポンテについてもふれている。

「当地には管長ダ・ポンテという作者がいます。この人はさしあたり劇場用の直し物で目がまわるほど忙しいのですが、義務としてサリエリのためにまったく新しい台本を書かされています。その仕事を片付けるのには、二か月はかかるでしょう、その後で私にも新作を書いてくれるという約束ですが、その約束を守ることができるか、あるいは、守る気があるかどうかは、分かりません。ご承知の通り、イタリアの殿方は面と向かってはとても愛想がいいのです!・・・私はイタリア・オペラの畑でも、自分の腕前を見せてやりたいものです!」

 ところで『後宮からの逃走』初演(1782年7月16日)から『フィガロの結婚』初演(1786年5月1日)まで、およそ4年。オペラ作家としては空白となるこの期間、モーツァルトは何をしていたのか?ウィーンでの自立した音楽家としての活動である。初めのうちは音楽教師もした。しかし中心はピアニストとしての活動だった。予約演奏会を開き、そこで新作のピアノ協奏曲を演奏して人気になった。とりわけ名高いのは、1783年3月23日にブルク劇場で催されたオール・モーツァルト・プログラムの大演奏会であった。ヨーゼフ2世も列席している。

「劇場はもうこれ以上人が入らないくらい一杯でした。しかも桟敷席という桟敷席も満員でした。その上一番うれしかったのは皇帝陛下もご出席下さったことです。それにこの御方はどんなにご満悦であったことでしょうか、またどんなに高らかに拍手喝采をして下さった事でしょうか。」(1783年3月29日付父宛手紙)

 1785年2月、モーツァルトの招きに応じてウィーンにやってきたレオポルトも、息子の充実した活躍ぶりを娘ナンネル宛の手紙にこう書いている。

「おまえの弟は、家具類もすべて整ったきれいな家に住んでいる。・・・こちらに到着した晩、私たちはあの子の予約演奏会の初日を聴きに行ったが、そこには身分の高い人々がたくさん集まっていた。・・・演奏会は比べようもない素晴らしさで、オーケストラも見事だった。・・・ハイドン氏は私にこう言われた。『私は神に誓って正直に申し上げますが、あなたの御子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。御子息は趣味がよく、その上、作曲に関する知識をだれよりも豊富にお持ちです』」(1785年2月16日付ナンネル宛レオポルトの手紙)

アウガルテン宮のガルテンハウス

  ここで1772年以来、マチネー・コンサートが開かれていたが、モーツァルトは、1782年からこの演奏会で指揮をとり、この年の8月18日には『後宮からの逃走』も演奏された。


トーマス・ハーディ「ヨーゼフ・ハイドン」

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