「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」10 モーツァルトとコロレド大司教②

 1780年の夏、思う存分才能を発揮できないザルツブルクで、欲求不満が鬱積していたモーツァルトを舞い上がらせる報せがミュンヘン宮廷から来る。1781年の謝肉祭シーズンのオペラの作曲依頼だ。台本は『クレタの王イドメネオ』。モーツァルトは秋から作曲を始め、11月5日、心弾む思いでミュンヘンに向かう。バイエルン選帝侯カール・テオドールの依頼とあっては、コロレド大司教も休暇(12月18日までの6週間)を認めざるを得なかった。

 ミュンヘンに到着したモーツァルトは、《イドメネオ》の作曲に没頭する。選帝侯は好意ある態度でモーツァルトに応対するだけでなく、練習をも見学。

「最後の練習は素晴らしいものでした。――それは宮殿のさる大広間で行われましたが、選帝侯も立ち会ってくださいました。――今度はオーケストラ全部との練習でした。第一幕のあと、選帝侯はぼくに大きな声でブラヴォーとおっしゃってくれました。そしてぼくが出てゆくとき御手にキスをすると、『このオペラは素敵なものになるだろうな。きっと君の名誉になるだろう』とおっしゃったのです。」(12月27日付父宛手紙)

 翌年1月29日に宮廷劇場で行われた初演が大成功だったかどうか、確実な資料は残されていない。いずれにせよ、モーツァルトはミュンヘン滞在を続ける。コロレド大司教から認められた休暇期間はとうに過ぎている。なぜそれが可能だったのか?実は、モーツアルトがミュンヘンに到着したのと同じ月の29日に女帝マリア・テレジアが世を去り、コロレド大司教は急遽伺候するためザルツブルクを離れてウィーンにいたのだ。謝肉祭のシーズンのミュンヘンで、モーツァルトはみんなから大事にされ居心地のいい生活を満喫する。しかし、ウィーンから命令が届く。コロレド大司教がザルツブルク宮廷の貴重な装飾品である天才音楽家モーツァルトを呼びつけたのだ。1781年3月12日、モーツァルトはミュンヘンを発ち、16日ウィーンに到着。コロレドはモーツァルトを他の音楽家と振り分けて、独りだけ自分と同じ宿(「ドイツ館」)に泊まらせる。しかし、そんなことでモーツァルトは満足できない。

「ぼくという人間に大司教の『虚栄心』をくすぐるものがあるという点では、間違いがありません。しかし、そんなことはぼくにとって何の役に立ちましょう?そんなものでは生活ができません。」(3月24日付父宛手紙)

 食事は召使たちと一緒(ミュンヘンでは当然彼らとは別のテーブル)。命令に従って演奏したり、新作を作曲しても、ろくな報酬も支払われない。自分から進んで演奏活動をしようとしても、きまって大司教が邪魔をする(とモーツァルトには思われた)。皇帝ヨーゼフ2世に近づくことを考えていたモーツァルトにとってどれほど腹立たしかったことか。

「ぼくの主要な意図は、体裁よく皇帝に近づくことです。何としても皇帝にぼくを知ってもらいたいからです。心を打ち込んでオペラをやってのけ、それからしっかりとフーガを弾いてお聞かせしたいと思います。」            (3月24日付父宛手紙)

「先日すでに申し上げたように、大司教はここではぼくにとって大きな邪魔者です。ぼくが劇場で発表会をしてまちがいなくせしめたはずの、少なくとも100ドゥカーテンをふいにしてくれました。・・・昨日ぼくはウィーンの聴衆に非常に満足した、と言っても差し支えありません。ケルントナー・トーア劇場での未亡人たちのための発表会に出演したのです。喝采がいつまでも止まないので、始めからまたやらなければなりませんでした。今はもう聴衆がぼくのことを知ったのですから、自分で発表会を催したら、どんなことになるとお考えですか?しかしわれらの下衆(げす)野郎(注:もちろん大司教のこと)はそれを許しません――自分の雇い人がもうけるのを望まず、損をさせたいのです。」(4月4日付父宛手紙)

最終的決裂に向かって、モーツァルトのコロレド大司教への反感と憎悪は日毎につのっていく。

1781年のグラーベン(ウィーン)

ツィーゼニス「カール・テオドール(プファルツ選帝侯時代」

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