「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」9 モーツァルトとコロレド大司教①

 亡きザルツブルク大司教シュラッテンバッハはモーツァルト父子の最大の理解者だった。宮廷楽団副学長の地位にあったレオポルトが、わが子を連れて長期間にわたる旅に出られたのも、シュラッテンバッハの寛大な許しがあってのことだった。しかし新たに就任したコロレド伯爵は前任者とはまるで違い、おおらかなところのない、秩序第一の官僚的な君主。従来大聖堂内で演奏されていた交響曲は「敬虔な魂と音楽的聴覚にとって好ましからず」と評され、「あらゆる尊い思索が、恥ずべきヴァイオリン音楽によって、一般の人の心から奪い去られている。不快な騒音故、純粋器楽は廃止が好ましい」とまで宣告される。財政的理由もあって、宮廷楽団の演奏回数と演奏時間は削減されていく。オペラの新作上演などと言う話は、持ち上がる可能性すらなかった。ザルツブルク宮廷に正式な職場を得たモーツァルトに求められたのは、第一に楽士長として宮廷楽団統率の任を果たす仕事。次に、教会の行事のために宗教音楽を書くことや、機会音楽を書くこと。オペラの作曲は遠い夢だった。欲求不満がたまるのは当然。第1回イタリア旅行時の1770年、モーツァルトはローマで教皇クレメンス14世より、音楽家最高の栄誉と言われる「黄金の軍騎士勲章」を授与された。さらにボローニャではアカデミア・フィラルモニカの会員(わが国で言えば芸術院会員)にも迎えられた(当時、既定の会員資格は20歳以上だったが、このときモーツァルトは14歳)。しかし、ザルツブルクではそんな称号も資格も何の役にも立たない。ミラノにおけるオペラ上演の大成功も、処遇の向上にはつながらない。素直で、従順に職務を果たす音楽家を求めるコロレド大司教にしてみれば、才能があるからと言って、日常業務をおろそかにし、外国にばかり行きたがるモーツァルトがお気に召さない。己の才能を発揮する場を与えられず、実力にふさわしい待遇も受けられない生まれ故郷での生活は、彼にとってほとんど地獄であった。1778年8月7日付の父宛の手紙にはこう書かれている。

「最良の友であるお父さんよ、ぼくがどんなにザルツブルクを嫌っているかは、ご存じでしょう!愛するお父様とぼく自身がそこでこうむった不正のためばかりではありません。そのことだって、そんな土地をすっかり忘れ、頭の中から抹殺してしまうだけの十分な理由になるのですが!・・・ぼくの楽しみと喜びがどこか別のところで起こったら、倍になるということは、やっぱり否定できません。[ザルツブルク以外なら]どこでも一層楽しく、仕合せに暮らせると思うからです!お父様は多分ぼくを正当に理解なさらず、ぼくがザルツブルクを小さすぎると考えているとお思いなのでしょう?それなら大変なお思い違いです。・・・さしあたり、ザルツブルクはぼくの才能に合わない土地だという理由で、ご勘弁ください!第一に、音楽をやる人が尊敬されず、第二に何も聴けません。そこには劇場もなければ、オペラハウスもないのですから!たとえ実際オペラを演じようとしたところで、果たして歌う人がいるでしょうか?この5,6年来ザルツブルクの音楽には無用なもの、不必要なものがまだ沢山ありながら、必要なものは非常に乏しく、どうしても無くてはならないものはすっかり剥ぎ取られて、現在はその状態なのです!」

 さらに有名な同年9月11日付の父宛の手紙。

「ザルツブルクに嫌気がさしている唯一つの理由を申し上げましょう。人々のきちんとした社交の機会がないこと、音楽では名声が得られないことです。そして大司教が、旅をしてきた賢い人々を信じないことです。誓って言えるのですが、芸術や学問に携わる人間で、旅をしない者は、哀れな存在にしかすぎないのです。大司教がぼくに、二年に一度の旅を許してくれるのでなければ、ぼくは彼と契約など結べません。凡庸な才能の持ち主なら、旅などしようがしまいが、いつまでも凡庸なままです。しかし卓越した才能の持ち主ならば――ぼく自身がその才能の持ち主であると自負しても、罰は当たらないと思いますが、いつも同じ場所に留まっていたら駄目になってしまいます」

 強烈な自負心と、それをさせる向上意欲。モーツァルトがコロレド大司教と折り合いが悪くなり、決裂するのは時間の問題だった。

オーストリア 旧5000シリング紙幣

「黄金の軍騎士勲章」をつけたモーツァルト 

シュラッテンバッハ大司教

コロレド大司教

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