「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」8 モーツァルトとミラノ

 モーツァルトが生きていた18世紀、音楽家たるもの、オペラを書かなきゃ一人前ではなかった。そして18世紀のヨーロッパで音楽の本場と言えばイタリア。オペラをはじめとするイタリア音楽はヨーロッパ中に拡がり、宮廷楽団や歌劇場では、どこへ行ってもイタリア人の楽長や作曲家、演奏家たちが幅をきかせていた。だからモーツァルトが音楽家としての栄達の道を進むためには、イタリアでオペラを学び、イタリアで認められて箔をつけなくてはならない。父レオポルトはこの課題を実行に移す。

 モーツァルトはイタリアに3回旅をしている。最初の旅は、1769年の12月から翌年の3月にかけての15か月にも及んだ。この旅は、歓迎されたという点でも、収入を得たという点でも、一流音楽家に学んで、音楽家としての力をつけた点でも大成功だったが、さらに作曲家として認められ、オペラを依頼された。そして旅行中に作曲に励み、ミラノ大公の城内劇場で初演も行われた(1770年12月26日)。『ポントの王ミトリダーテ』である。結果は大成功。レオポルトは12月29日付けの手紙でこう記している。

「ありがたいことにオペラの初演は26日に行われ、ひろく喝采を博しました。それにミラノではかつて起こったことのなかった二つのことが起こったのです。つまり、初演の晩の慣例に反して、プリマ・マドンナのアリアが一曲アンコールされたこと、初演では決してアンコールしないものです。それに第二点は、最後の幕のいくつかのアリアを除いて、ほとんどすべてのアリアで、アリアのあと、びっくりするような拍手喝采と『マエストロ万歳』『マエストロ万歳』という叫びが続いたことです」

 モーツァルト自身も姉への手紙(1771年1月12日付)で「ありがたいことに、オペラは中って、毎晩のように劇場はいっぱいです。多くの人が、ミラノに住んでいる間に、新しいオペラでこんなに一杯になることを見たことがないと言って、不思議がっています。」と書いている。

 驚くことに、このときモーツァルトはまだ14歳。1771年3月末にザルツブルクに帰るが、その後約2年の間に、さらに2回ミラノを訪れることになる。二度目のミラノ行きは、ミラノ大聖堂でフェルディナント大公の結婚式が行われたためである。この時、大公の母であるマリア・テレジアから依頼されてモーツァルトが作曲した、祝典劇《アルバのアスカ―ニョ》が上演され、大いに好評を博した。大公は、モーツァルトをなんらかのかたちでミラノ宮廷に結び付けておきたかった。そこで母帝マリア・テレジアに伺いを立てる。その返事がフェルディナントのもとに届いたのは、モーツァルト節がすでにミラノを立ち去ってからのことだった。そして、その手紙(1771年12月12日付)にはモーツァルトの雇用を冷たく退ける言葉が記されていた。

「あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてかわからないし、あなたが作曲家とか無用な人間を必要としているとは信じられません。けれど、もしこれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔はしたくありません。あなたに無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響を及ぼすことになります。彼はその上大家族です。」

 三度目のイタリア旅行の行き先もミラノ。1772年12月26日、《ルーチョ・シッラ》が大公臨席のもとに上演された。このオペラも人気が高く、謝肉祭シーズンに何度も続演され、劇場はいつも満員だった。レオポルトは、当然大公が我が子を宮廷音楽家として雇ってくれるものと思って、ミラノ滞在を引き延ばしていたが、結局それはむなしい期待に終わった。1年前のフェルディナント大公宛のマリア・テレジアの手紙のことなどレオポルト父子は知る由もなかった。

 ところで、第2回のイタリア旅行からザルツブルクに戻った翌日(1771年12月16日)、モーツアルトの人生を大きく変えることになるだきごとが起きる。モーツァルト父子の良き理解者ザルツブルク大司教シュラッテンバッハ伯が世を去ったのである。

モーツァルトと旅


フェルディナント大公 マリア・テレジアの四男(第14子)

女帝マリア・テレジア

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